月別アーカイブ: 2018年12月

2018年12月27日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 冬至はかぼちゃのほうとうです。


学校の時 担任の有泉先生が(冬至と言う日は何の日だか、知っているか、家に帰って調べてこい)と宿題を出しました。私は同級の たか子ゃんの家により 居合わせた おじさんに聞きました。おじさんは、忙しそうに仕事をしながら(冬至は かぼちゃを食う日だ)と教えてもらいました。学校に行って発表したら 笑われました。

ご存知の様に、太陽が一番南に傾き 昼間が一番短いので、寒さがきつくなります。それで、体を温める為に ゆず湯に入る訳ですが 山梨県では、かぼちゃのほうとうを 食べます。
夏場に取っておいた かぼちゃは、熟成し 甘みが強く、ベーターカロテン、ビタミンB,C,E 食物繊維 カリウムなど、栄養豊富な 食べ物ですので、寒い冬を乗り切るには 持って来いの食材です。
冬至は、12月22日前後ですが、冬至十日居座りと言って 来年の小寒くらいまでは 同じような日が続きます。
クリスマスや、お正月撫でが 控えていますので、かぼちゃのほうとうでも食べて 病気に備えてください。

2018年12月27日 (投稿者: 株式会社フレンズ )


哺乳類(一部)も 爬虫類も 雪が降って食物が無くなる、寒さで動けなくなると 冬眠に入ります。シベリアのツンドラ.タイガに住む、(クズリ)は冬眠しません。外気温が下がれば 体温を奪われます。そこで動物は、体温を保とうとして、断熱材で 体を囲い 熱を奪われまいとします。この毛皮を 人間が利用して、エリマキや コートに 使用することは ご承知の通りです。

ミンク、リンクス、カワウソ、テン、と言った代表的な毛皮獣の冬毛は 厚く,下毛と 上毛が二重になって抜群です。
市場に出せば 即座に 高額で取引されます。しかし、あまり知られていない(クズリ)の評価は 抜群です。
すごい、悪臭で知られる(別名、スカンクベアー)クズリ、 子ネズミから、ヘラジカまで 有りと あらゆる獣を食べる、猛獣です。
しかしその毛皮は、どんな低温の中でも、凍り付いた雪は、さらりと落ち、エスキモーのフードには欠かせないのです。
-40℃の中でも、汗ばむくらいの 断熱効果だと言う事です。
最近では、どの国へ行っても 暖房が聞いていて 毛皮の必要性が、変化しています。
断熱性など関係ない ヒョウ、ジャガー、オセロット、等の 毛皮が、ファッションとして需要が伸び これら熱帯の美しいネコ科の動物が、絶滅の被害にあっているようです。  小林昭男

2018年12月27日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 平成最後の天皇誕生日でした。

天皇陛下が23日で85才になられました。在位中 最後の記者会見で、皇室の在り方や、象徴天皇の 心構えなど お話になりました。
特に、第二次世界大戦の反省 その後 起こった、災害に対す皇室の在り方など 初めて心境や、今からの 皇室の在り方にまで お話が及び、改めて 平成天皇の苦悩や、象徴天皇の 大変さが解り、感銘しました。
ただ、残念だったのが、間に挟む コマーシャルでした。気づかれた方も いらっしゃっと思いますが 感動し 涙ぐんでいる時に
赤い甲冑を着て 槍を持ったおじさんが 赤い、タヌキ、緑の狐 とか言って 即席ラーメンの宣伝をしていました。
コマーシャルが悪いと言っているのではありません。場所や、内容を 考えてもいいと思ったのです  小林昭男

2018年12月18日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) キジバト(やまばと)を見かける様になりました。


里山にいるはずの キジバト(山バト)が 平地の畑や、住宅地の公園で 見かける様になりました。電線に留まり、デデッポー、デデッポーポーと 鳴いているが聞こえます。足元まで来て 警戒心が無いようですが まだ山に残っている個体は、全然、人になれません。1500m位までの山で、小枝を寄せ集めた巣を造り、子育てしています。ハト類は ビジョンミルク(親鳥の半消化液)で、子育てしますが、 この液は、脂肪、たんぱく質、ビタミンミネラル の含有量が多いので、食べ物な亡くなった 冬でも子育てできるのです。

ハト類は スズメや、カラスなどと 鳥の大きさを示す 目安になって居ます。例えば ヒヨドリは、ハトより小さく、スズメより大きい 等となります。キジバトは、一見目立たない様ですが 首周りの青灰色、羽根の光沢のある 縞模様は、自然の美しさが有ります。
私の住んでいる、山梨大学の構内や、近くの十郎側にも キジバト、セグロセキレイ、カモ、アオサギ 等の野鳥が 三々五々、飛び回っています。小鳥を見ていると、何かホットします。 小林昭男

2018年12月16日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 武蔵野 国木田独歩の世界


秋から冬に移り行く 武蔵野の美しさを これほどまでに表現した小説も 少ないと思います。作者 国木田独歩の武蔵野の書き出し【武蔵野の俤(おもかげ)は今、わずかに 入間郡に残れり】 

明治31年浪漫性の 強い作品を発表しました。独歩が 明治29年頃に 暮らしていた 東京都渋谷村(現、渋谷区)の近郊の情景を 書かれたものと思います。

武蔵野の自然に 吸い込まれるような感覚で 江戸時代から 続いている、山林や、畑の要素をまとめています。
書き出しの(武蔵野の俤(おもかげ)とは まだ開発されない、やぶや 茅が、生い茂った 草原の武蔵野、そんな昔の 光景を踏まえ 今の武蔵野に 心を惹かれていると、私は思いました。
学制改革により、山口中学校を中退し 東京専門学校(現、早稲田大学 英語普通科に入学しました。
明治27年 徳富蘇峰の 国民新聞の従軍記者として 日清戦争で 敏腕記者で 名声を上げたそうです。
そのころ、短編の【源叔父】等 多数の作品を書きましたが、尾崎紅葉や、倖田露伴などが主流で、注目されませんでした。
そして、明治41年(1908年)37才の若さで亡くなりました。(運命)を書いた2年後でした。  小林昭男

2018年12月15日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 知将真田昌幸の生き方。


信州の上田城です。1583年。 知将、真田昌幸が大規模な、本格的な お城を築き 上田城と 名付けました。関ケ原の戦いの折 長男信之には、東軍(徳川家康)に、昌幸、次男幸村は、西軍側(石田三成)に付き 真田家の 存続を図りました。戦いに負けた 昌幸、幸村父子は 高野山に流され 長男信之が 後を継ぎました。

信之はその後(1622年)松代に移され 仙谷家が 居城としていましたが 1706年 松平家の居城になり 江戸末期まで続きました。もともと上田城には 天守閣は無く 仙谷家時代に7棟の 櫓(やぐら)を建て、現代、その遺構 が残っています。武田信玄、真田幸村、上杉謙信 そんな武将が、自分の土地を守るために 戦った時代ですね。
東虎門右手石垣の 大石は 縦2.5m、横3mも有り、信之移封の際、父の形見として、持ち出そうとしましたが、ビクともしなかったそうです。  小林昭男

2018年12月12日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 島崎藤村は、なんと言っても(夜明け前)でしょうね。


初冬の夜長、皆さん、どう、お過ごしでしょうか。最近のテレビ番組、面白くないのに ゲラゲラ笑い、他人のスキャンダを煽り立てる事が多くなりました。それで、本棚をひっくり返して昔、読んだ本を見ています。

島崎藤村の【若菜集】最初に発表した詩集です。

まだあけそめし 前髪の
林檎ももとに 見えしとき
まえにさしたる 花櫛(はなぐし)の
花ある君と 思いけり

明治五年 岐阜県馬籠宿(現、中津川市)代々庄屋を務める名家に生まれ 父は国学者でした。明治30年 明治学院本科(現、明治大学)入学の為上京 卒業後、明治女学校講師になり 詩や、随筆を発表 明治30年 初めての詩集【若菜集】
を出し、その中に この 初恋が有ります。
やさしく白き 手をのべて
林檎を われに与えしは
薄紅の 秋の実に
人こい初めし はじめなり
その後、小諸義塾の講師として 小諸に赴任したころから 長編小説(破壊)を発表 春、家、夜明け前、新生、と次々に 小説を発表しました。晩年は 日本ペンクラブの初代会長に 就任し 日本文学の地位交渉に努めました。小林昭男

2018年12月12日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 九州を一大観光地にした男。


先日、南九州(宮崎、鹿児島)方面に 旅行した折、岩切章太郎の 話を聞きました。宮崎市街地から、日南海岸北端、指宿、青島まで ワシントニワパームを植え 南国の宮崎、宮崎の父と 言われているそうです。

昭和39年、昭和天皇の 五皇女貴子様と、島津久永氏が  ハネムーンで訪れた 日南~指宿まで(津津ライン)と地元で入って言っているようです。当時は 何の変哲もないこの地を 一大観光地にしたのが
宮崎交通、岩切章太郎だそうです。
当時は 海外に気軽に 行けない時代 南国情緒たっぷりの 宮崎に、ヤシの木を 道路沿道、ホテル、観光名所に植え 南国気分にしたし、ハワイを彷彿させ 若人の人気を高め、新婚旅行は宮崎、日南海岸 と宣伝し 新婚の名所にしたそうです。ロマンあふれる 神話に彩られた、神秘性。 南国の雰囲気に、新婚夫婦は 酔いしれたそうです。現在では 沿道だけで840本植えてあり、台風などでは びくともしないそうです。一人の実業家のアイデアで【新婚旅行は、宮崎】の地なったそうです。銀行の頭取、観光協会会長、宮崎放送会長などを歴任し 昭和60年(1985年)92才で亡くなりました。小林昭男

2018年12月09日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 日本の苦しみは 真珠湾攻撃で始まりました。

昭和16年12月8日、日本人が忘れてはいけない 大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦の 始まりです。アメリカ、イギリスなど 欧米の国々がアジア地域を 植民地化しているのを見かねた 日本が【アジアの植民地を開放し、大東亜共栄圏を設立し アジアの自立を目指す)の理念に基づいた 戦争であったが、その、方法や、外交の根回し等いろいろな 見通しの甘さなどで 間違えを起こしたような 気がします。真珠湾 奇襲作戦で、太平洋艦隊を ほとんど沈めましたが、猫がトラに 戦争を仕掛けたような 結果になってしまいました。アメリカは 短期間で戦力を回復させ、僅か3.5年で 日本は 無条件降伏を する事になってしました。
2発の原爆投下 東京を始めとする 大都市の空襲 壊滅的な打撃を受け 占領されました。しかし、日本民族は、何もなくなったこの土地で 立ち上がりました。
闇市、高度成長、オイルショック いろいろな大障害を乗り越えて 世界有数の 経済大国になり 現在に至っています。
今、戦争を知らない 日本人が多数を 占めてきています。映画や、小説で、戦争を美化したものが溢れています。是非 若い人たちも、戦争の悲惨さ、苦しさ、情けなさを 勉強することを 望んでやみません。   小林昭男

2018年12月09日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 昔は、日本中貧しかったようです。

 


師走に入り お歳暮の季節になりました。現役中はお世話になった人を あれこれ考えましたが 今は静かです。お届けするところも、頂く相手も激減しました。

磯野家は 少し普通の家庭と違う様です。フネさんと、サザエさんが 中心になって、お中元や、お歳暮を 使いまわししていました。磯野家では、頂いたお歳暮は ほとんど家では使いません。お中元やお歳暮は デパートから調達するものでは 無く、御他人様から 頂いたものを フネさんとサザエさんが、お届けしる習慣の様です。(⑦巻、㊷巻参照) 子供達にも徹底して (包み紙をきれいに取らないと、よその家に持っていけないよ)と言う 徹底ぶりです。でも、サザエさんは若い主婦らしく 一か月分の牛乳を 送ったアイデアも披露しています。㉘巻参照)また、カツオは 父の日に 波平がいつも行く おでん屋に、先回りしてお金を預け 波平が(お勘定)と言うと おでん屋が、カツオちゃんに(父の日プレゼントで、頂いたよ)と言われ 思わず波平が 涙した場面も有りました。【66巻73P)
いずれにしても 温かい、平凡で 愉快な家庭です。残念なことに フネさん役の声優 麻生美代子さんが今年8月亡くなりました、ご冥福をお祈りいたします。 右:麻生さん。  小林昭男

2018年12月05日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 秋から冬絵の交代です。


紅葉の便りも ソロソロ終わり 初冬の 動植物に変わってくると思います。私は可愛い、うさぎちゃんから、いきます。 エゾ雪うさぎ、種類は 諸説あるようで 省きますが、寒い地方では、衣替えをします。夏は 草むらで 生活するので、雑草に紛れる様に 茶色っぽい、余り 綺麗な色では 有りませんが 草むらでは 見つかりにくい色です。冬は、真っ白に変身します。日本の兎の中では 一番大きく、耳が 小さいのが特徴です。 ベルクマンの法則や、アレンの法則通りです。 寒冷地の動物は、温暖の土地に 住む動物より 体が大きく(表面積の割合を小さくしている)突起物は、小さくなっている(熱の放出を防ぐ)そうです。 難しい事はさておき 

兎の毛は、回りが皮質、中心部が 髄質に分かれていて、冬になると 中の髄質が、体内に吸収され 空洞になり 白く見えるのだそうです。空洞の中には 空気が入り、断熱効果と、 雪の中なので、素晴らしい 保護色になります。
肉食動物に 食べられる運命に 草食動物は 生き残るために、進化を 続けているのでしょうね。白い雪の中で、茶色い動物が、ちょろちょろ 歩いていれば、きつねや、テンの 餌食になるのは 必定でしょう。良く出来ています。  小林昭男

2018年12月04日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 組合の皆様有難うございました。


三日間の九州旅行、熊本空港より、高千穂峡に行き 付近の散策しました。天照大神様が 籠った天の岩戸、 付近が真っ暗になって困った住民が 岩戸の前で踊った事、余りに楽しそうなので天照大御神様が 岩戸を少し開けた時、タチカラオの尊が岩戸を 怪力で開け 明るい光が戻った古事、次の日は、鵜戸神社や 浦島太郎、玉手箱で有名な 竜宮神社 等、見物し 指宿温泉 白水館の素晴らしいコースでした。でも、歩く場所が多かったんで(一日1万m)足の脹脛がいたくなりましたが、指宿の砂風呂で すっきりした。

三日目は、知覧の英霊に逢って、今日、平和に暮らせるのは 貴男達のお陰だと 感謝の祈りを捧げてきました。
特に、平和会館での、特攻隊員の 辞世の言葉には 何時も乍ら感動します。父母への 感謝の言葉、妹や、妹を心配する気持 日本の勝利を信じて、笑顔で、爆死する姿を見て、涙、涙でした。あれから73年の月日が流れ 今の現状を見て、考えさせられる事も 大へん有ります。素晴しい旅でした。追伸 出来れば、組合員各位の 全員参加が有れば、なお良かった思いました。        小林昭男