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2019年05月30日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) ほととぎす 後徳大寺左大臣の和歌

『ホトトギス 鳴きつる方を眺むれば ただ有明けの 月ぞ残れる。』
初夏を代表する 百人一首の中の 和歌です。
作者の後徳大寺左大臣(本名、藤原の実定)は百人一首を選んだ(藤原定家)の従弟に当たります。5才で元服し、以後 順調に出世し 17才で左近衛権中将に、なんと 19才で 正三位 中納言に昇進した人です。
詩の意味は簡単で ホトトギスの 声がしたので、その方角を見たら ホトトギスの姿は見えず 有明の月(明け方に見える月)が ぼんやりと見えた)と 解釈されます。ホトトギスは、初夏の頃 南からくる渡り鳥で、カッコウと同じように ほかの鳥の巣に卵を産み、自分では育てません。
後白河天皇の姉、統子内親王が 皇后になると 権大納言になり 平安時代の末期 不安定な 情勢の中で、近衛天皇~後白河天皇~二条天皇~六条天皇~高倉天皇~安徳天皇~後鳥羽天皇と 7代の天皇に仕えたと 伝えられています。
その後、木曽義仲が平氏を破り 義経が追放された後も、意外にも 源頼朝にも 重要視されたそうです。
一人の歌人でも 大変な 物語が有るものですね。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:鳥画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、夜写真の説明はありません。

2019年05月30日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 北条時頼と佐野源左衛門常世

鎌倉時代の名君、北条時頼は1227年5月に誕生、幼少のころから聡明で、兄弟の中でも抜群だったそうです。19才で鎌倉幕府の執権になり 幕府に逆らった 三浦泰村一族、千葉秀胤一族を、上総に国で滅ぼし 幕府を強固にまとめました。
1256年、執権を辞し 諸国を回ったと伝えられています。
皆様ご存知の (鉢の木)も その時の出来事でした。     上野の国、佐野庄で大雪にあい、一軒のあばら家に 宿を頼みました。主人とその妻は、素姓も知れない お坊さんを温かく迎え 温かい雑炊を振る舞い、囲炉裏を囲み 話に花が咲きました。夜半には薪も亡くなると、主人は客人の為に、大切に育てていた 松、梅、桜の盆栽を燃やし、自分は、元、この佐野庄の名主だったが、親族に騙され、こんな生活をしているが『鎌倉にことあるときは、はせ参じる』旨を話しました。その人は、佐野源左衛門常世でした。
しばらくして、鎌倉から諸国に動員令が出され、常世もやせ馬に 古い甲冑を付けて(いざ、鎌倉)とはせ参じました。
みすぼらしい姿に あざ笑いされる中、役人から呼び出され、恐る恐る進み出ると、そこには あの大雪の坊さんの顔が有りました。その人こそ、前の執権 北条時頼だったのです。
時頼は一宿一飯の恩義を述べ あの夜の約束通り はせ参じたことを褒め 佐野庄安堵燃やした盆栽に因んで、上野の国松井田庄 越後の国桜井荘 加賀の国梅田庄を 常世に与えました。他人には親切にし、約束は守りましょう。右中:時頼のお墓、明月院 右:常世の墓、願
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2019年05月26日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 夏は来ぬ。昔懐かしい歌です。

 


夏は来ぬ

(1)卯の花の匂う垣根に ホトトギス早も来鳴きて
忍び音もらす 夏は来ぬ。
(2)さみだれの そそぐ玉田に 早乙女が裳裾 濡らして
玉苗植うる 夏は来ぬ。

作詞者佐々木信綱は、和歌の創作、研究に功績を残し古典文学にも尽力しました。ですから内容が、聞きなれない 古めかしい文章に なって居ます。卯の花は、旧暦4月(卯月)の宇津木の花を指し (忍び音)は その年初めて聞こえる、ホトトギスの声です。
(5)五月やみ 蛍飛び交い クイナ鳴き 卯の花咲きて
早苗植えわたす 夏は来ぬ。
(さつきやみ)は 五月闇で 旧暦梅雨の夜の 暗闇の意味で
真の闇。クイナ鳴きは ヒクイナの鳴き声(叩くような)門などを叩く 形容詞です。(源氏物語など)

作曲したのは、小山作之助。
16才で、上京し、現、明治学院大学から 東京音楽学校(現、東京芸術大学を 首席で卒業、その後教授として 作曲などをし 滝廉太郎など、指導したのです。
平成27年 北陸新幹線が、この(夏は来ぬ)を 発車メロディーにしたのは、小山が 新潟県出身 だからだったんでしょう。 左:作詞佐々木信綱、中:作曲小山作之助
右:卯の花    小林昭男

2019年05月22日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 小林一茶は、弱い者の味方です。


江戸時代中期の俳人、小林一茶 いつも弱い者の 味方です。【痩せガエル、負けるな一茶 ここに有り】

長野県の農家に生まれ、三歳で、母親を亡くしました。8才の時後妻が来て、冷たくされ、困った父親が 江戸に奉公に出したのが15才。一茶の少年時代は 悲惨なものだったのでしょう。
でも、一生懸命働き、俳句の師匠にも恵まれ 俳人として有名になりました。
約百年前に、活躍した 松尾芭蕉は、日本中を回って 俳人としては、奥儀を深めていました。奥の細道など、俳句の芸術的完成者であり、極めて高い 句風を確立していました。静寂の中に、自然の美しさ、孤高の 気高さが感じられます。
それに対して、一茶は 頭書の作品や(今までは、踏まれていたに、花野かな。)の様に 小さなものや 細やかな視点は 育った環境の影響かも知れません。
困難に向かっていく、強さ、しぶとさが、俳句の隅々に表れている様な気がしてなりません。
俳句は、やっぱり心の叫びでしょうかね。素晴しい先人たちがいて 今が有るのでしょう。64才で亡くなりました。左:一茶 右:芭蕉  小林昭男

2019年05月20日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 中世、戦国時代の初めに石垣です。

 


石垣で有名な お城を見てみましょう。織田信長に目を掛けられ、いくつもの戦いに勝利し、信長の死後 豊臣秀吉に仕えた、【蒲生氏郷】の居城だった 松坂城(松阪城)です。

故郷近江の 石積の名人、穴太衆(あのうしゅう)が積んだ、野面積の 代表的なお城だと思います。現在は天守閣は 有りませんが、石垣はしっかり 残っています。
1584年 伊勢(三重県)松ヶ島の 城主になりました。しかし場所が不便だったため 新城建設に 取り掛かりました。
四五百森(よいほのもり)に 本丸、二の丸、三の丸を持つ 大城郭を 作りました。ところが築城2年目で、小田原攻めの功績により、氏郷は、会津(福島県)に入封したのです。
その後、服部氏や、古田氏が入り 江戸時代には、幕府直轄になり 明治まで続いたそうです。建物は有りませんが、穴太衆が積んだ、豪壮な野面積の石垣は 戦国時代の面影を 残しています。また、江戸時代の、国学者(本居宣長)の別宅(鈴屋)が 城下から、移されています。
正面、本丸、二の丸、氏郷、城址碑   小林昭男

2019年05月19日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 私の散歩コースです。

 


私の散歩コース、山梨学院大学周辺の 写真を撮りましたのでご紹介します。キャンパス東側、大きな センダンの木が 有ります。(栴檀は双葉より芳し)と言いますが、どんな境遇に生まれても 努力次第で 立派な人間になれます。(氏より育ち)と言う諺も 有りますので。なおも、西に進むと十郎側の土手が、綺麗に 整備されています。学園西側には、ホッケー スタジアムも、揃っています。土、日は、水を打った後、青いカバーで覆われ 大切にグランドが 管理されています。再び、構内に戻り 周りを見渡しながら、ラジオ体操をしますが、マックの、レストラン、箱根のマラソンの銅像などが  有り 緑に覆われた、学園です。

その他、屋内水泳場、サッカー場、ラクビー、野球場など、スポーツ施設が、周辺にあり、学生さんが 伸び伸びと 体を 鍛えています。
7時を過ぎますと、生徒たちが、学園の周りの ランニングが 始まります。一見して、100kg以上の集団(柔道か、ラクビー)の生徒 割合 細形たちは、剣道部か、水泳の学生と 思われます。ランニングが始まる頃、私は家に帰ります。十郎川では、アオサギが 朝の食事を していました。小林昭男

2019年05月17日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 今年はバラの花が大輪でした。


四月の下旬から 咲き誇っていた 我が家のバラさんも ソロソロ散り始め ピンクや、シロのじゅうたんを 敷いたようになりました。先日、挿し木の準備に、専用の土を買って、プランター2つ 用意しました。

バラさん達は、次々に咲くので、肥料も追加しないと、色づきや、香りが 出せないと思い、お子守に 手がかかります。
咲き終わった花は、早く摘み取り、無駄な種を 造らない様にしています。中には、四季咲きも有りますが、大部分は秋まで待っています。栄養を沢山吸って 又、素晴らしい花を咲かせて頂きたいと思います。
ヒサミ、シャルダンズ・フランス、つるピース、ブルーフォーユー、有難う     小林昭男

2019年05月15日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 一死一生、乃ち交情を知る。

欧米の合理主義は、多民族が基本と なって居るようですが 単一民族の日本は 義理人情に厚く、外国人から 尊敬されているようです。
元々、中国からの儒教の 影響もあると思っています。でも 最近は少しづつ 欧米化してきている様な きがしています。
【一死一生乃ち交情を知る】
一度死に、生まれ変わると、人の交わりが良く解ると、言う意味でしょう。
史記、によると、漢時代 武帝の時 擢公(てきこう)は  廷射と言う 役職に就いた時 訪問客が、列を為していたが、辞めたとたん、見向きも しなくなりました。その後、権力抗争に 打ち勝って 廷射につくと 客が立ち込める様に なりました。
そこで、擢公は 墨、黒々と
【一死一生乃ち、交情を知る、一貧一冨乃ち、交態を知る、 一貴一賤交情を、乃ち見る】と書いて、玄関に張り出したそうです。
でも、そういう状態は、日本でも日常有りますよね。
総裁選でも、役員改選でも、〇〇理事長改選でも 現在力を付けている人の方に、なびくのは いつの時代も 同じかもしてません。昔、世話になったから、なんて言う人は 少なくなりました。   小林昭男

2019年05月12日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) シオマネキは初夏の風物詩です。


干潟のある 海辺の風物詩に シオマネキがいます。潮が引くと 一斉に巣穴から出て、大きな方の、ハサミを振り上げます。有明海の シオマネキも 体の前で、上下にはさみを振る動作が、(潮招き)と言う由縁です。

中でも、有明海周辺に多い(ハクセンシオマネキ)は ハサミの 振り方がダイナミックです。ハサミを 横から振り上げて前に降ろし 体ごと上下させる、大胆なしぐさです。ハサミが鮮やかな 白色なので、(白扇シオマネキ)に 命名されたのでしょう。
塩招き類は 出界で60種類ほどありますが、そのうち日本には10種類位います。日本が北限と言われ、神奈川以西に 分布しているようです。しかし最近の研究で、奄美大島以南の ハクセン、シオマネキは少し 形態が異なるので 別亜種、オキナワ、ハクセンシオマネキ と 呼ばれるように なったそうです。
シオマネキのハサミ振りに どういう意味が有るか、色々研究している そうですが、雌に対する 求愛行動とも 考えられますが、雌のいない 干潟でも、降っているそうです。それでも、放浪している 雌が近くに来ると、一生懸命振る 様子を見ると、やっぱり 求愛かも知れません。潮が引き、干潟になった直後から 満潮まで ずっと、活動しているので、カニ類では、最も、陸上生活に 適合しているそうです(国立科学博物館主任研究官、農学博士 武田正倫研究書)
アサリをほっていたら、シオマネキが 出てくるかも知れませんね。小林昭男

2019年05月07日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 犬山城は、国宝(五城)の一つです。


愛知県と、岐阜県の境にあり 木曽川沿いの 高台に建てられた犬山城、大きなお城では無いですが、木曾川に映、すその姿は、美しい事で有名です。国宝に指定されている 五城(姫路城、彦根城、松本城、松江城、犬山城)の中でも、風光明媚で知られています。

別名【白帝城】の語源は、李白の詩(早に白帝城を発す)にちなんで、命名されたと言われています。
最初の築城は、応仁の乱(1469年)の頃ですが、重要な位置にある為 城主が 目まぐるしく変わっています。
小牧,長久手の戦いでは、秀吉が本陣を置き、家康に対峙しました。江戸時代に入り、成瀬正成が 城主に入り 昭和の時代まで、成瀬家個人所有でしたが、平成に、財団法人になりました。元々、二層の櫓に 三層目を建て増ししたので 古い、望楼式になって居ます。
犬山城の城主は、最初の 織田信康~最後の(成瀬淳子)さんまで 25代の方々が 城主になって居ます。  小林昭男

2019年05月05日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 夏も近づく八十八夜


夏も近づく八十八夜、

野にも山にも、若葉が茂る
あれに見えるは 茶摘みじゃないか
アカネたすきに菅の傘。
5月2日は、八十八夜でした。立春から数えて88日目。この時期は 遅霜などが有るので 農家の方々に 注意を呼び掛ける為に造ったと 言われています。八十八夜が終わると、5,6日で立夏です。
日本人にとってお茶は、冠婚葬祭~お友達の付き合い、一年中飲まれて 親しまれています。
ご存知の様に 中国が原産地と伝えられ、わが国では、平安時代の初期に 伝えられました。805年唐に渡った、天台宗の開祖 (最澄)が持ち帰ったと 伝えられています。
その後、比叡山の麓 滋賀県大津坂本地区に 種を植えたことが 記録に残っているそうです。(日吉神社道秘密記)   また、なんと 現在にも 坂本地区日吉茶園として、残っているそうです。
平安時代から 桃山時代までは 一般に人は 殆んど飲んでいなかったようですが 江戸時代になり、武士と接触していた 商人などから 一般に普及した様です。最初は格式ばった、ものでしたが、隠元禅師などから、急須に入れた、現在の飲み方に普及させ 気軽に庶民も飲める様に なったそうです。小林昭男

2019年05月01日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 目に青葉、山ホトトギス初カツオ


令和元年5月1日 新しい年号で 出発いたします。戦の無い 平和な 令和で有ります様に。

【目に青葉、山ホトトギス、初カツオ】
山梨県出身の 山口素堂の作です。江戸時代の初めの頃、  北巨摩郡(現、北杜市白州町で)生まれました。20才の時、家業(魚市場)を弟に譲り 江戸に渡り 漢学などをおさめ  役所勤めを したことも 有るそうです。1674年32才の頃、 京都に渡り  和歌、茶道、書道を修めました。
日本の食文化は、季節を感じ、季節を頂くのが大切で、旬の物を頂くと 寿命が延びると 言われました。
美しい黄緑色の 若葉を見、綺麗なホトトギスの声を聴き、 新鮮な カツオを食べる 最高の贅沢だったんでしょう。
もう少し待てば、盛りになり、安く買えたものを 値段など関係なく 一足先に食べるのが 江戸の人の(粋)だったんで しょう。
江戸時代、初カツオは 高価なもので【まな板に 小判一枚 初カツオ】と 言われるほどだったそうです。
山口素堂は 我が山梨の 自慢できる歌人の一人です。 小林昭男