月別アーカイブ: 2019年9月

2019年09月29日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 秋の百人一首は この詩でしょう。


朝夕、めっきり涼しくなり、高山では早くも 紅葉の便りが聞こえてきます。紅葉と言えばこの詩でしょう。
【ちはやふる 神代も聞かず竜田川 から紅に 水くくるとは】  平安時代に活躍した(825年~880年)在原の業平の和歌です。
小倉百人一首に載って居る 秋を印象付ける 傑作です。
36歌仙の一人で、家柄も良く 父は、平城天皇、母は、桓武天皇の 血を引きましたが、朝廷も認めた プレーボーイで有名でした。
解説を少ししますと、 ちはやふるは、神の枕詞で、神様を 讃える事を強調しています。
神代も聞かずは 不思議な事も沢山あった 神々の時代も 聞いたことがない。と言う意味だと思います。
竜田川は 奈良県生駒郡にある、竜田山のほとりの川です。
からくれないには 唐(から)から来た、絞り染めの真紅の布。
水くくるとは 川の水を、絞り染めにしてしまった。 要するに 神々の住む頃だって、こんな不思議な事は起らなかった。それなのに、竜田川の水を、唐色の 真っ赤な織物に してしまった。と言う意味だと解釈できます。
奈良時代の遊び人、在原の業平は 伊勢物語のモデルとも 言われています。
平安時代、朝廷が作った歴史書に 今風に言えば (見た目はイケメンで、スタイルも抜群だが、行動は、自由奔放で 勝手に生きている。頭は悪いけど、うまい詩は書いている)
そんな人の様に書いてあります。写真は 在原の業平と竜田川の紅葉。(プリタニカ百科事典参照。  小林昭男

2019年09月23日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) お彼岸さん おはぎを食べながら振り返ってみましょう

お彼岸さん、おはぎを美味しくいただくのも 結構な事ですが折角ですので少し おさらいをしてみましょう。【彼の岸に渡る】三途の川を渡って極楽に行くには、6枚の切符が必要だそうです。(六波羅蜜)
(1)布施:他人に施す、自分に有って、他人に無いものを施す。寂しい人に笑顔で接する(和顔施)でもいいそうです。
(2)持戒(じかい):自分勝手ではなく、相手の事を考え 仲良く譲り合う心を持つ。
(3)忍辱(にんにく):耐え忍ぶ 辛い事、寂しい事、悔しい事があっても 困難に耐え 笑顔を忘れない事。
(4)精進(しょうじん)全力を尽くして、努力する事 良い結果が出ても,おごらず、向上心を継続させる。
(5)禅定(ぜんじょう)心身ともに 冷静さを忘れない事。
(6)智慧(ちえ):真実の、知識力を持つ。欲望が強まると
物の 善し悪しの判断が鈍るので、真理を見極める力を 持つこと。
この6枚の切符が有ると、必ず天国にいけるそうです。
閻魔様の前で、ウソを言ってもダメです。閻魔様の後ろにある 浄玻璃の鏡には 生まれた時からの行動が 全部写ってしまいます。可愛い、善意のウソはいいですが、人を陥れる様なウソはつかないで 生きたいですね。(寂聴さんの言葉参照) 小林昭男

2019年09月19日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 若山牧水は酒豪でした。

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画像に含まれている可能性があるもの:1人以上、立ってる(複数の人)画像に含まれている可能性があるもの:草、屋外、自然                『白玉の歯にしみ通る秋の夜の 酒は静かに飲むべかりけり』
冠婚葬祭、うれしい時、悲しい時私達は お酒を飲みます。
放浪の歌人若山牧水も こよなくおさけを 愛した一人です。宮崎県日向市に 医者の長男として生まれ 家族の反対路押し切って、早稲田大学に 進みました。牧水にとっての、文学の故郷(現、宮崎県立延岡高校)には 国民的歌人の遺徳をしのんで胸像と、歌碑が有ります。
『幾山河、越え去り行かば 寂しさの 果てなむ国ぞ 今日も旅行く』
僅か43才の生涯で 旅先には 260くらいの歌碑が 有ると言われ 未発表の作品は9000首に及んでいます。牧水がいかに旅を愛し、人気を博したかが うかがえます。当時は流行の与謝野晶子などの 浪漫派歌人と違い、その時々思いついた事、情景が浮かぶ 世界観を 表現した 自然主義文学は 人々の心を打ちました。
『白鳥は悲しからずや、空の青、海の青にも染まず漂う』
牧水は、大層な酒豪で、一日1升もの さけを飲んだと言われ
肝硬変を患って 静岡の自宅で43才で 没したという事です。
9月17日 月命日です。  小林昭男

2019年09月14日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 朝夕涼しくなりました、夜空を見上げてみましょう。

久しぶりに夜空が 澄んで見えました。南の空は、あの大きな月(ほぼ満月)が 輝いていますので、星は良く 見えませんので、北の空を 見てみましょう。
中間より上に(M)の足が開いた形の カシオペア座が見え その下の 中間地点に、北極星(ポラリス)が小さく チカチカ光って居ます。北極星の右側、北東方向に やや黄色の大きな星が 御者座のカペラです。もっと右を見ると(真東)少し赤い巨星 アルデバランが 綺麗に見えます。
カペラは、太陽の直径の9倍、質量は3ばいくらいです。
太陽系からは、42.92光年離れていますが、表面温度が 太陽と同じ6000℃ですので、黄色がかって見えます。
21個の、一等星の中でも 割合、下に位置しているので、地球の 大気の影響を受け、揺らいでキラキラ光って見えます。方角によって 光り方が違うので、2重星、4重星の様です。
この頃から空気が乾燥し、澄んでくるので、夜空を見上げるのも、目の保養になると思います。写真は図鑑参照    小林昭男
上左:御者座 上中:カペラ 上右:アルデバランと、太陽の比較下左:太陽プロミネンス
下右:カシオペア
写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:夜写真の説明はありません。

画像に含まれている可能性があるもの:室内

2019年09月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 家康は、要所を固めるのが得意でした。

写真の説明はありません。画像に含まれている可能性があるもの:屋外、自然画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、屋外、自然

画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、たそがれ、屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外1600年、関ケ原の合戦で、日本は一変し戦国時代に 概ね終りを告げました。徳川家康は 江戸の幕府を開くため 奥州を固め、秀頼、淀君のいる 大阪を孤立させるため いろいろの 策を講じました。
その一つが 篠山城の築城でした。1609年 西軍と、大阪を切り離すため 中間地点の要所 丹波篠山盆地に 築城の名手を自認する藤堂高虎に、縄張りを 普請奉行には 重臣、池田輝政を指名
 西軍の大名を使い 天下普請(西軍の外様大名に人員、費用を負担させる)を実行し 15の国、20名の大名に 篠山城を 築城させました。静かな田園が広がる里山に 豊臣家と、最後の決戦を 見据えた家康は 軍事上極めて重要な 位置に 堅固な 高石垣を施し 豊臣家、および西軍に にらみを利かした城です。
初代城主には 実子、松平康重を置くなど家康の、真剣みが、うかがえます。その後、青山家が6万石で入城し 明治まで存続しています。二条城の御殿を まねしたと言われる、大書院は 昭和19年、焼失しましたが(平成12年復元)石垣は現存しています。
石垣には、刻印があり、天下普請の様子が解ります。
工学博士、内藤昌氏著書参照    小林昭男

2019年09月06日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) ムクドリの夫婦は仲良しです。

ムクドリは、里山や、農耕地から 人間に追われて 都会に来た可哀そうな 鳥だと思います。色が綺麗、鳴き声が良いと 好かれるけれど、あの、いろ、形ではあまり 好かれていません。公園の樹木や 人家の軒先に巣を造り 嫌われます。
でも、ムクドリ夫婦と子供4羽で一年に 100万匹以上の 虫を 食べてくれるので、本当は益鳥です。人間が害虫を駆除するのに かかる費用を、一匹、1円とすると 年間100万円以上も 人間のために なっています(この金額は、検証資料が あまり無く 不確定です)
繁殖期(春から夏)を過ぎると 巣から離れ、団体行動をし 10万羽も 集まる事も あるそうです。
一晩中あの、ぎゅるぎゅる、ギャーギャー、時にはミチュ、ミチュ 鳴かれては タマッタものでは有りません。
日本の文学には時々登場し、冬の季語に なって居ます。
江戸っ子は、奥州や、北陸地方から 冬に出稼ぎに来る人達を喧しい、田舎者と言う意味で、ムクドリが来たと 言ったそうです。小林一茶も 故郷信州から出てきたときの 屈辱を(ムクドリと、人に呼ばれる 寒さかな)と俳句に残しています。
ムクドリも、鳥の大きさを測る鳥として、スズメ、ムクドリ、ヒヨドリ、ハト、カラス等と一緒に活躍しています。
例えば スズメより大きいが、ムクドリより小さいとか ハトより大きいが、カラスより小さいと 大きさを表現します。
この鳥も、よく見ると可愛いですね。(写真は、動物図鑑参照)  小林昭男

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画像に含まれている可能性があるもの:鳥、空、屋外画像に含まれている可能性があるもの:鳥

2019年09月05日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 島崎藤村の、若菜集 初恋です。

まだ上げ初(そ)めし前髪の 林檎のもとに見えし時 前にさしたる 花櫛の 花ある君と 思いけり』
島崎藤村は、岐阜県馬籠村(現、中津川市)の代々庄屋を務める旧家に生まれ、父は国学者でした。明治大学院を卒業後、明治諸学校の教師になり 島村透谷らと、雑誌(文學界)に  詩や随筆を 投稿していました。明治三十年(25才)の時  若菜集を発表 浪漫的な 新詩集として、脚光を浴びました。
その詩集の中の 初恋 の一節です。学生時代に、暗記させられた 文章ですよね。
『優しく、白き手を伸べて 林檎を我に 与えしは 薄紅(くれない)の秋の実に 人こい初めし はじめなり』
しかし 小諸義塾の教師として 小諸に,赴任したころから 長編小説(破壊)などを発表し 自然主義文学の分野に 進出し 絶賛されました。
『リンゴ畑の樹の下に おのずからなる細道は 誰(た)が ふみそめし かたみぞと 問いたまふこそ こいしけれ』
小説は あまり多く書いていませんが 我が家の 没落をかいた(家) 江戸末期から、明治に入いれ、時代についていけない島崎家をかいた(夜明け前) 自分と,姪の許されない関係を書いた(新生) 晩年には 日本ペンクラブ初代会長になるなど 日本文学に貢献し (1943年)昭和18年8月22日 70才で大磯の自宅で 亡くなりました。亡くなる時の最後の言葉が(涼しい風だね)と言ったそうです。如何にも、文学者の 最後の言葉の様ですね。小林昭男