2019年03月19日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 哺乳類にも、130トンから1.5gまでいます。


哺乳類で一番大きな動物は シロナガスクジラですよね。体長、30m、体重130屯にも達します。

一番小さな哺乳類は チビトガリネズミの仲間です。体長は45mm、体重は1.5gしか有りません。トガリネズミと 言っても モグラの仲間で、日本には北海道の沼地や 森林に住んでいるようです。北海道に住んでいるに 学名は東京トガリネズミです。
明治36年イギリス人 ホーカー博士が 江戸のイヌカワで発見し、本国に送った際 新種と認められ、日本に連絡した文章を(江戸と、蝦夷)と間違えて 東京トガリネズミに なったと言われています。冬眠もせずに 極寒地に住んでいるため 大食いで有名です。寝る間も惜しんで 食べまくり、12か月から15か月の寿命です。
寒い地方で生活するに、色々な努力をしています。寒さに耐えるエネルギーを 驚くほどの食欲で補い、冬になると、脳を収縮させて エネルギー不足を 解消しています。脳は一番エネルギーを必要としていますので。
生き残るために、体の部位まで変えて 生存を図る小動物、 スゴイと思いまして書きました。
小林昭男

2019年03月15日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 宮本百合子の播州平野を読んでみました。


本百合子の 播州平野読んでみました。夫、宮本顯治(日本共産党元委員長)が終戦の日まで、思想犯として 網走刑務所を 出所するまで 百合子の心の葛藤を 素直な表現で 描いています。広島にいる 顯治の母から(顯治の弟が 爆撃で 行方不明になった)との手紙をもらい 急いで広島に 向かいます。無我無中でしたので 周りの事は何も目に入りませんでした。

終戦で、網走刑務所から、宮本顯治が出所することを 新聞で見て、東京に帰る事します。日本は混乱して、思うように汽車も走りません。汽車に乗り、馬車に揺られながら、ふと周りを見ると、播州平野が 目に止まりました。
荷馬車に 揺られながら、加古川から明石を目指す 風景が、透き通る様な 秋の夕日に照らされて、のびやかに広がって居る光景が、関東平野や、那須野と比べ違い 綺麗に耕された光景と、遠くに臨む 山々が調和して、来るときは何も見えなかったのに、夫にあえる 嬉しさで、こんなにも景色までが 美しく見える事を 不思議に思いながら 帰郷したことが、 穏やかな表現力で 読者の心を揺さぶります。
戦前のプロレタリア文学から 生まれてと思いますが、内容は、夫の事、家族の事を思う、一人の女性として、描かれている様な気がして、戦争の恐ろしさ、不自由さを 端的に教えています。
1951年【道標】3部を完成させた後、急性敗血症のため 51才で亡くなりました。  小林昭男

2019年03月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 古都の、神社仏閣の参拝をしてきました。

       3月9,10に七面龍王神社の 仲間で奈良、東大寺、興福寺、福井の永平寺の 参拝をして来ました。東大寺の建物、大仏様はいつ見ても、厳かで、雄大で、感服します。
興福寺は、先般の大改造で、見違えるほど 美しくなりました。 興福寺の始まりは、藤原鎌足の夫人が、夫の 病気回復の為 請願し 天智天皇(中大兄の王子と言った方が解りやすい)が 669年、京都に建立したのが 始まりだそうです。
その後、都を平城京に遷都したので 鎌足の子、不比等が 現在の地に 移ったと いわれています。国宝、重要文化財の数では、日本有数だと思われます。
中でも 阿修羅観音像や、運慶などが作成した 鎌倉時代の仏像が多数ありました。
次の日には 福井県の永平寺を参拝し 杉の大木の中を 散策し、雲水の皆さんが 掃除して、ピカピカの廊下、階段を上がり、道元禅師の 説明を受けて 実も心も、清々しく、生き返って様な 気持ちでした。
道元禅師は、1200年生まれで、早くから、比叡山 延暦寺に上がり 仏門に入ったそうです。23才の時 宋(中国)に渡り修業を積み 帰国しましたが 旧仏教勢力の迫害を受け、信者の 波多野氏の招きを受け、福井に来たそうです。その時すでに43才だった道元は 翌年 傘松峰大仏寺を建立し その後、山号を 吉祥山永平寺 と改めたそうです。意味は(永久の和平)だそうです。  小林昭男

2019年03月06日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 美しい山梨、川も綺麗に、大切に


3、4、日に降った雨は、南アルプスでは、雪の様でした。 私が散歩する、山梨学院大学の 駐車場から映しました。 右側から、甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山の(薬師、観音、地蔵) 奥に見えるのが 間ノ岳です。北岳は、観音岳の後ろで  見えません。

富士山も 真っ白でしたが、逆光で写せませんでした。
甲府盆地は、字の如く、山に囲まれています。冬は空っ風、 夏は蒸し暑い 盆地特有の気候です。でも、最近は空っ風が少なくなり、過ごしやすくなりました。最後の写真は 十郎側の上流から 流れてきた、プラスチックのゴミです。
こんなに プラスチックのゴミの 毒性を報道しているのに、一部の人だと思いますが、川に捨てる人が いるんですね、怒りを通り越して 悲しくなります。
是非、分別を(粗大ごみ、資源、有価物、など)しっかり分けて、所定の場所に置きましょう。   小林昭男 

2019年03月05日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 平安中期に戻ってみましょう。


三月に入り、フキノトウ、梅の花、水仙、沈丁花など 毎日美しい花々を、見てまいりましたので、平安時代中期の 枕草子でも、載せてみました。

皆様よくご存知の【枕草子の、春はあけぼの】清、少納言です。

春はあけぼの ようよう白くなりゆく 山際少し明かりて
紫立ちたる雲の 細くたなびきたる。
966年 歌人 清原の元輔の子と生まれ 子供の頃から聡明さを発揮していました。祖父は、古今和歌集の代表的な歌人、 深養父です。

夏は夜 月の頃はさらなり 闇も尚 蛍のおほく 飛びたがいたる。又ただ、一つ二つなど ほのかに うち光りて行くも をかし。
中宮定子(一条天皇の皇后)に仕え、(清、少納言)と呼ばれ、その美貌と知性により 寵愛されました。

秋は夕暮れ 夕日の射して 山の端いと 近こうなるに、
鳥の寝どころに 行くとて 三つ四つ 二つ三つなど
飛びいそぐさへ あはれなり。

晩年は、父(元輔)の山荘あたりに住み 59才で亡くなりました。なお、紫式部とは仲が悪かった などと言う説があるようですが、宮中に仕えた 時期が違うので、そんなことは無い様です。清少納言の和歌を一つ

世をこめて 鳥のそらねは謀るとも よに逢坂の関は許さじ。
小林昭男

2019年03月01日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) ホントの幸せは、何でしょうね。

Vector Illustration of 3 beautiful rural landscape scenes.


組合の皆さん、幸せって何でしょうね?大金持ちになる事でしょうか。自分の地位が高く成る事でしょうか、それとも何もしなくて、我がままな生活をする事でしょうか。

芥川龍之介が、中国の物語を参考にして、青少年に 解りやすく書いた小説(杜子春)が有ります。
杜子春と言う男が、夕暮れ時 洛陽の門前で 途方にくれて 佇ずんでいました。栄華を極める 都と裏腹に 無一文でぼんやりしていました。すると、老人が来たので 身の上話をしたところ、夕日の中に立って(頭のところを掘ってみなさい)というので掘ってみると、金銀財宝が出て、一晩で大金持ちになり 見も知らね友人まで現れて、贅沢三昧の生活をし、また無一文になり 友人も消え去りました。
また同じように、洛陽の門前に立っていると 又同じ老人が来たので、(私はあなたの様な仙人になりたい)と言うと(仙人にしてやるが 修業がつらいぞ)と言い 峨眉山に登り、どんな怖い事が起ころうとも 絶対に声を出してはいけない と言って消えました。それから 四六時中、妖怪が襲い、地獄の苦しみに有っても、声を出しませんでした。
しかし、両親が馬の姿になり、ムチで撃たれながらも、(私達の事はいい、貴方が幸せになりなさい)と言って瞬間(お母さん)と言ってしまいました。
直ちに妖怪は消え、老人が 微笑みながら近づき 小さな家と、充分暮らせる田畑を残し 仙人は消えました。気っと、汗水流して働きなさいという、戒めでしょう。
何が幸せなんでしょうか、考えさせられますね。  小林昭男

2019年02月26日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 土井晩翠、滝廉太郎の(荒城の月)は つい口ずさみます。


春、高楼の花の宴 巡る盃影さして

千代の松枝 分け出でし 昔の光今いずこ。
最近の唄は どうも馴染めません、一生懸命、踊って歌っていますが意味不明です。若い方に怒れそうですね。
秋陣営の霜の色 鳴き行くカリの 影見せて
植うる剣に 照り沿いし 昔の光今いずこ。

【荒城の月】を土井晩翠が 作詞したのが1898年(明治31年)晩翠28才の時であり 東北大学の修学旅行の 鶴ヶ城(若松城)を 思い浮かべたり、戊辰戦争で壊滅状態になり、白虎隊の悲も思い浮かべながら構想を練ったようです。 作詞の上では 故郷、宮城県の青葉城(仙台城)を散策しながら作詞したと言われています。
2節目の (秋陣営の霜の色・・・)は 上杉謙信が、七尾城攻略の折読んだ漢詩(霜は軍営に満ちて 秋気清し、数行の過がん月見さらなり・・・)から、思いついたようです。

天上影は変わらねど 栄枯は移る 世の姿
映さんとてか今も尚 ああ、荒城の夜半の月
1952年素晴らしい詩を送り出し80才で 永眠しました。
作曲した、瀧廉太郎は 自分が子供時代に過ごした、大分県
竹田市 岡城を散策し 曲の構想を練ったと 伝えられています。
お二人とも、私達が今、口ずさむ数々の名曲を、送り出しました
小林昭男

 

2019年02月25日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 美しいものは永遠に残したいですね。


18才のアスリートの方や 7人の子供を持つお母さんのがん告白、北海道の地震、いじめ、パワハラ 最近はニュースを見たくありません。
少し明るい事を 思い浮かべてみましょうか。
先日読んだ本に、何が世界一か、生活、景色、法律など 各分野で、列記してありました。
私が一番心を動かしたのが 南米ボリビアの【ウユニ塩湖】でした。富士山とほぼ同じ高さ(3700m)にある 南北100Km  東西250Kmの 塩の塊の湖です。
皆様も、テレビや雑誌で 見たことはあると思いますが、塩原の中心部に立てば、地平線まで、雪景色の様だそうです。
アンデス山脈の 隆起により出来た大地で、流れ出る場所がなかったので、長い年月を掛けて、塩湖になったそうです。
100Km四方の標高差が50Cmで (世界で最も平らな場所)
だそうです。又、世界で一番大きな 天空の鏡に なるそうです。
ウユニの塩は、世界中に輸出され、日本も輸入しているそうです。塩をブロック状態にして、家を建てたり、塩のブロックで、ホテルも建設してあるそうです。地球も広いですね。
写真右:塩を山にして乾燥しているそうです。  小林昭男

2019年02月20日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 日本庭園の研究かです。


私達が、神社仏閣を見学する場合、建物は勿論ですが、庭園に目が移ります。日本でも有数な庭師 重森美鈴氏は 日本庭園の設計者です。

当初は、画家を志願していましたが 1929年(昭和4年)京都に移り住み 勅使河原宗風らと、新興生け花宣言 をし 生け花の革新を提唱し、話題を呼びました。
その後、日本庭園を 独学で学び 昭和11年ころから、全国500か所以上、名庭園、古い庭園を回り 研究家として、 日本庭園の 先駆けとなった人です。
1976年(昭和51年)完途氏(長男)と共に 【日本庭園史体系】全33巻 を完成させるなど 日本庭園史に多大な貢献をしました。享年79才でした。
ご自分の名前を、三玲(ミレイ)フランソワ、ミレイに改名し
(一度出家すると戸籍を抹消で来ることを知り、出家して戻り)三玲のしたそうです。
長男、完途(カント) 次男、広俺(コーエン) 長女由郷(ユーゴー) 三男、執氏(ゲーテ)等々 ヨーロッパの偉人の名前を つけたことも有名です。子供や孫たちが 殆んど 芸術に関係する 職業についています。
上:岸和田城八陣の庭、中:京都瑞峰寺の庭、下:松尾大社蓬莱の庭 (重森三鈴美術館写真参照)小林昭男

2019年02月19日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 能登。北陸の抑え、富山城。


日本の冬型の天気図は 西高東低が常識で、関東は空っ風、北陸は雪景色です。安土桃山時代、木下藤吉郎の時代から、仲良く付き合っていた 前田利家 寧々さん、お松さんと呼び合い 家族ぐるみの付き合いでした。絶対的に利家を 信頼していた秀吉は、北陸方面の守りを 前田利家に任せていました。越中、能登、加賀、越前 など 前田家が治めていました。

江戸時代になり、利長、利常と代が変わっていき 利常の長男(光高)が加賀を治め 次男(利次)が越中(富山県)を相続したのです。
富山城は、もともと、水越勝重が 神通川沿いに、築いた城ですが 1579年 信長の家臣、佐々成政が 越中、守護職として入城し お城の 大改造をしました。1585年 秀吉が天下を取り、佐々成政は、外様大名として 九州熊本に 入封されました。その後、北陸4県を前田家に 与えたものです。
以来、加賀藩から10万石で利次が 分封されたのです。
その後は、230年余り 前田家13代の居城として使用されたのです、建物は 火災や水害で焼失し 現代の建物は1954年 当時の建物を、想像し 建てたものです。  小林昭男