2018年06月04日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 勝負する時は、絶対勝つ勝負を。

 

1559年80名の旗本を伴い、尾張名古屋城の織田信長は 将軍足利義輝と面会し、  尾張、滋賀、美濃地方制定の報告し 天下統一の足掛かりを付けました。翌年
永禄三年5月10日(新暦6月)駿河、遠江、三河三国の大首、今川義元は、遅れ
じと 二万五千の大軍を率いて 京都に出発しました。それは、尾張を踏み
つけての行動です。しかし待ち受ける信長の兵は 北陸や中国地方に分散して
2000しか有りませんでした。勝ち目は皆無と言っていいでしょう。しかし
、尾張、美濃を 明け渡すことも出来ません。名古屋城で あの謡曲を詠い
決断するのです。【人間五十年 下天のうちに比べれば、夢、幻の如くなり。
一たびこの世に生を受け、滅せぬことは、あるべきや】その後、直ちに
熱田神宮に兵を招集し 桶狭間で急襲の作戦を立て 今川の大軍を待ちました。
一行は 昼食をゆっくり食べ、甲冑を外して 寛いでた所に 精鋭の織田軍が
、今川義元だけを狙って急襲したのです。義元は 服部小平太に、一番槍で、
毛利新介に 首を刎ねられました。両人とも、尾張随一の港町(津島衆)の
精鋭です。不意を突かれて、義元が殺された今川方は、総崩れになり、
駿府に逃げ帰ったそうです。
この桶狭間の勝利により、織田信長は事実上
日本を平定したのでした。フレンズ小林