2019年02月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 婦人参政権に尽くした、平塚雷鳥の生涯


(元始、女性は太陽であった。) 平塚雷鳥25才の時、雑誌、 (青鞜)発刊の折 自ら寄稿した 表題に掲げ、当時の女性を驚かせました。戦前、戦後を通じて 一貫して、女性の参政権、女性解放運動、平和運動に尽力し、2005年 日本大学では、平塚らいてう賞を創設しました。(日大は母校)

1914年(大正3年)市川房江さんらと (新婦人協会)を設立、婦人参政権運動を続け 戦後、国会議員の当選 平和と、夫人の権利を守る 運動に終始しました。
自ら言っているように 常に貧乏でした。機関誌発行や、貧しい婦人たちに 寄り添い、粗末な身なりを、自慢するかの様だったそうです。あまりに 婦人運動に集中し過ぎ、夫、  奥村博史は
【静かな水鳥たちが、仲良く遊んでいるところへ 一羽のツバメが飛んできて、平和を乱してしまった。若いツバメは 平和の為に 飛び去って行く】と書いて、去っていったことから、(奥村氏は雷鳥より6才下)  (若いツバメ)が当時の流行語になったそうです。
1886年(明治19年)会計検査院次長、一高ドイツ語教師の 裕福な家に生まれ乍ら、一生貧乏し 1971年(昭和46年)亡くなりました。昨日が誕生日でした。
右:市川房江  小林昭男