2020年03月02日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 武田二十四将の馬場美濃の守信春


我が山梨の名将、武田信玄も一人で 仕事をしたのでは有りません。二十四将の名だたる家臣がいて、尚且つ 板垣駿河の守信方、内藤修理、高坂弾正などの 重臣がいたからでしょう。
特に、信虎(信玄の父)信玄、勝頼 親子三代に仕え 70有余の合戦に参加 しかも、かすり傷一つ追わずに 戦国時代を生き抜いた 武将はいないでしょう。
不死身の鬼美濃、一国の太守の器量人と呼ばれ 文武両道の大将でした。それは 馬場美濃の守信春です。
信春の 心がける心情は 武田家直伝の 新羅三郎家光~四世紀に渡って培われた 甲斐源氏の対戦方法【敵を知り、己を知らば、百戦危うからず】から来ていると思われます。
初陣の 海に口の戦い、川中島の5度の戦い、三方ヶ原の戦い、
智略で城を攻め、その地方を温厚な人格で治め 勇気をもってすべての戦に 勝利してきましたが、長篠城攻には反対したものの、若い勝頼の強引さに負け戦い 武田軍は惨敗しました。
馬場信春は、勝頼軍が 引き揚げるのを見計らって、織田軍の中に 反転攻撃を掛け、壮絶な最後を 遂げたそうです。織田信長にして(あっぱれ、馬場美濃、お点前の働き比類なし)と 言われたそうです。(信長公記)
生まれ故郷の 北杜市教来石には 子息、馬場民部少輔が開祖した 曹洞宗長松山万休院が有り、舞鶴の松が有名でしたが 2008年、松くい虫で枯れ(樹齢450年) 現在では 樹齢百年の赤松が有ります。(坂本徳一著、武田二十四将参照) 小林昭男