2019年09月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 家康は、要所を固めるのが得意でした。

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画像に含まれている可能性があるもの:空、雲、たそがれ、屋外画像に含まれている可能性があるもの:空、屋外1600年、関ケ原の合戦で、日本は一変し戦国時代に 概ね終りを告げました。徳川家康は 江戸の幕府を開くため 奥州を固め、秀頼、淀君のいる 大阪を孤立させるため いろいろの 策を講じました。
その一つが 篠山城の築城でした。1609年 西軍と、大阪を切り離すため 中間地点の要所 丹波篠山盆地に 築城の名手を自認する藤堂高虎に、縄張りを 普請奉行には 重臣、池田輝政を指名
 西軍の大名を使い 天下普請(西軍の外様大名に人員、費用を負担させる)を実行し 15の国、20名の大名に 篠山城を 築城させました。静かな田園が広がる里山に 豊臣家と、最後の決戦を 見据えた家康は 軍事上極めて重要な 位置に 堅固な 高石垣を施し 豊臣家、および西軍に にらみを利かした城です。
初代城主には 実子、松平康重を置くなど家康の、真剣みが、うかがえます。その後、青山家が6万石で入城し 明治まで存続しています。二条城の御殿を まねしたと言われる、大書院は 昭和19年、焼失しましたが(平成12年復元)石垣は現存しています。
石垣には、刻印があり、天下普請の様子が解ります。
工学博士、内藤昌氏著書参照    小林昭男