月別アーカイブ: 2019年4月

2019年04月30日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 35年ぶりに発見されて哺乳類です。


ネコ目の 肉食哺乳動物は、殆ど発見されていますが、5年前 35年ぶりに アンデス山脈の奥地で、発見されたのが【オリンギート】です。

体は、ふわふわした 短い毛で覆われ 丸顔の大きな目が特徴です。世界中の 動物研究者たちは、小躍りして喜びました。
コロンビアとエクアドルの、深い森で 樹上生活をし、夜行性だったので 発券が遅れたそうです。
肉食哺乳類と言っても、アライグマ科ネコ目 ですので肉食獣に なるそうですが、イチジク等の 果物しかたべません。(パンダも肉食哺乳類ですが竹しか食べない)
オッパイが一対有るので、多分繁殖は一匹だと推定されています。
研究責任者で 米国スミソニアン国立自然史博物館、哺乳類担当 クリストファーヘルゲン教授は 『20世紀過ぎてしまったが、発見の世紀は まだまだ続く。この素晴らしいオリンギートは 華々しい成果だ。新種は今後も 数多く見つかるだろう』と言っています。但し、動物園には 来られないと思います。可愛いですね。小林昭男

2019年04月27日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 戦場写真家 沢田教一


最近は、世界のあらゆる地域で 爆発テロが起こっています。宗教が違うのか、政府に不満が有るのか それぞれ、言い分が有るとは思いますが 悲惨な光景を見るたびに、なぜ、同じ 人間同士で、殺し合いをするか、理解できません。

先日 沢田教一の 写真集を見ました、ベトナム戦争の悲惨な光景に 思わず目を 背けてしまいました。
沢田教一と言えば、皆さんご存知の 世界報道コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツアー賞など 大賞を総なめにした 戦場写真家です。
小学校の時から 写真に興味を持ち、中学生の時、アルバイトで稼いで 中古のカメラを買い、あまりにも熱心なので、教師から 新品のミノルタ製6×6㎝をもらったほどでした。
青森市内の小島写真店に就職してから、頭角を表わし 愛用のライカH2で サンケイ新聞、UPI通信などで 活躍したそうです。
縁あって、ベトナム戦争の 取材を決意し 戦場カメラマンになり、いくつもの瞬間写真で 大賞を撮ったたのです。
しかし、プノンペン支局長らと、国道2号戦場で、何者かに狙撃され 34才の若さで亡くなりました。愛用のライカも 腕時計も無くなっていたそうです。地球上から戦争が無くなることを 祈るばかりです。  小林昭男

2019年04月25日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 散歩の途中で見つけました。

 
私の散歩コースに、貸農園が有りますが 少し荒れていました。造り手が、病気か、引っ越したのでしょう、寂しそうに 花が咲いていました。近づいて観ると、大根の花とか、その他、見たことのない 野菜の花が 咲いていました。

私達は、実が、熟さない内や、花の咲く前に 収穫するので、なかなか見られない 花でしたので、写してきました。皆、 それぞれ、可愛く、一生懸命 咲いていたような 気が致しました。
私も、庭の一部で 家庭菜園をしています。苗から育てていると、いとおしくて、食べるのが 申し訳ない様な 気がしますが 新鮮な野菜は、食べてみると 美味しいですね。 左:大根の花 ネギ坊主 西洋野菜 菜の花  矢車草
小林昭男

2019年04月22日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 紙幣が5000円(樋口一葉)交代ですね。


5000円札、折角 樋口一葉だったのに 変わってしまいますね。一葉は 東京都千代田区で生まれましたが、ご両親は山梨県出身です。有名な【たけくらべ】は明治28年雑誌(文學界)に 一年かけて連載されました。父親や、兄が次々に亡くなって、生活苦の中で、青春を過ごしました。この作品を書く前、家族と共に 龍泉寺町の 長屋に引っ越し、雑貨や、玩具の店をはじもましたが、商売が思わしくなく 本郷丸山福山町に引っ越し そこで本格的に 小説を書き始めたそうです。龍泉寺町の生活の中で、(たけくらべ)は生まれて様です。

明治29年から、14か月の間に (おおつごもり)(たけくらべ)(にごりえ)(十三夜)(わかれ道)など 次々に代表作を発表、中でも(たけくらべ)は 森鴎外や、倖田露伴に 絶賛されました。
(たけくらべ)は 女郎になる運命の 美登利と僧侶の息子、信如少年との 純粋な心の触れ合いや、下町で暮らす、当時の子供たちの 生活や遊びが 生き生きと描かれ 一般の小説が少なかった時代、脚光を浴びたそうです。 又、歌人としても有名で、夏子と言う ペンネームで、4000首あまりの、詩を詠んでいます。いろいろな苦労が重なって、25才の若さで亡くなりました。
小林昭男

2019年04月18日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 磯野家は、一般的な家庭生活を営んでいます。


ザエさんは、一般庶民の 典型的な漫画ですね。磯野家は 自分の身の丈にあった 生活をしています。決して背伸びをしたり、無理はしていません。贅沢を少し しようとしても、借金してまでしません。

それでは、当主、波平の給料はいくらだったんでしょう。
昭和42年当時の波平は 税込み7万円でした(47巻81P参照)
その時代、55才の平均的給料は、男性で 6万7千4百円ですので、決して高くは 有りませんが 並みの給料です。
一方マスオさんは、昭和40年当時 32才で 3万4千円でした。
同じく、当時の平均月収は 5万4千円ですが、マスオさんは、手取りでしたので(45巻13p参照)決して 安くはないはずです。その外、ボーナスも出ているので、生活は楽だったと思います。サザエさんは、36巻になると パートに出ますが、例によって、長続きはしない様でした(44巻参照)
サザエさんが、夜、家計簿をつけ乍ら、【44巻9P)今月も一円も残らないと、嘆くシーンが有りますが、世田谷の家は 自己住宅なので 家賃はいりません。 その当時としては 中の上位いでは なかったかと思います。(給料計算は職種別民間給与実態調査)による。小林昭男

2019年04月17日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 晴れた夜には星空を見ましょう。


夜8時、北斗七星が北の空、豪快に輝きます。その柄の部分の 延長線上に(真東中段)オレンジ色の星、牛飼い座アルクトウルスが見えます。さらに延長しると、おとめ座スピカが、青白く輝いています。 この二つの星を夫婦星と呼んで、親しまれています。この二つの星を底辺に、しし座の デネボラ(白っぽい2等星)を 春の大三角と呼び、見つけやすい 位置に有ります。

アルクトウルスは、地球から40光年離れていて、直径が太陽の24倍ありますが、表面温度が4600℃と低いので オレンジ色に見えるわけです。一方、おとめ座のスピカは 地球から260光年鳴慣れていて(今の光は江戸時代の中ごろ)直径が太陽の8倍(地球の872倍)あり 表面温度はなんと、22000℃在りますので青白く光っています。夫婦星と言っても、こんなに離れているので(1光年:9兆5千億Km)夫婦関係は、希薄なのかも知れません。((笑)
だんだん温かくなってきました。ちょっとベランダへ出て、雄大な宇宙のストーリーを 覗いてみては いかがでしょうか.  北斗七星からの延長 アルクトウルス おとめ座 スピカ 春の、大三角   小林昭男

2019年04月16日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 2000Kmの旅を終えて帰ってきました。


4月から 5月にかけて、渡り鳥の交代が 進んでいます。冬鳥の、ジョウビタキや、ツグミは、北へ帰る 準備をしています。 今日は、朝の散歩の折、ツバメが数羽、十郎側の上を 飛んでいました。東南アジア方面から 2000Kmの旅を終わり、我が故郷に 帰って来たのでしょう。数日前から コイも産卵のため、濁川方面から上ってきました。

5月の長い連休の 終わりころから、バードウイークが始まり、小中学生や、野鳥の会の人たちが、巣箱を散りつけます。
でも、鳥の巣は、私達人間と違い (家)ハウスでは ありません。産院なんです。家族でくつろいだり、その巣から、遊びに 行ったりはしません。卵を産み、生まれた雛に 餌を運び、巣立ちをすれば、その巣に戻りません。ですから、卵を産んだ後に 巣箱をとりつくても、野鳥は、住んでくれないのです。
理屈はさておき、寒い冬、人間は、暖房の部屋で暖かく過ごします。一部の動物は、冬眠します。昆虫は、卵や蛹で じっと冬を 越します。でも、一部の鳥は、渡りを考え、暖かい地方に移り、寒さを しのいでいます。渡り鳥で一番危険なのが、2000Kmもの渡りの途中で、弱い鳥は 自然淘汰されます。 強い逞しい鳥だけが 生き残る様になっているんですね。
子孫を残すのは、強い丈夫なものに 資格があるんですね。
我が家のコブシも やって満開になりました。  小林昭男

2019年04月13日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 桜が、はらはらと散っています。


昨日の天候と 打って変わり、今日は穏やかに晴れ、気温も上昇しています。きっと1100年前も 同じような天候だったのでしょうね。

『ひさかたの 光のどけき 春の日に 静、心無く 花の散るらむ。』
紀の友則の代表作ですね。
ひさかたのは、(光)の枕詞 (こんなに日光が、穏やかに 差し込んでいるのに なぜ、桜は、落ち着きなく、はらはらと散っているのでしょう。)こんな歌だと思います。
紀の友則は、ご存知の 紀貫之(土佐日記)の従兄弟です。
官位は あまり高くはなかったようですが、歌人としては  宇多天皇が、親王の頃、近習として、お傍に 仕えています。
古今集の撰者で、三十六歌仙の一人でもあり 古今集には  四十七首 収録され、貫之、躬恒に次いで 3位です。古今和歌集の 撰者に任命されてから、間もなき病に倒れました 享年、50才有余だったそうです。  小林昭男

2019年04月13日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 風誘う花よりも我はまた・・・内匠頭の辞世の詩です。

 

 


今日の風で、せっかく咲いた満開の桜が はらはらと 散り始めました。

『風誘う、花よりもなお我は又 春の名残を、如何にとやせん。』

ご存知の 浅野内匠頭長矩の辞世の句です。この、(春の名残を如何にとやせん)を読んだ 大石内蔵助は、殿の無念を晴らすため、仇討ちを 決意したと言われています。
元禄14年4月(1701年4月17日)殿中、松の廊下で、いじわるされた、吉良上野之介に 刃傷に及びました。(後、一太刀と懇願したのですが、梶川頼照に抑えられ、幕府の命により  一関藩、田村邸(芝愛宕下、現港区新橋)で切腹したのです。
浅野内匠頭は 9才で赤穂の城の 家督を継いだので、我慢、忍耐が 足りなかったのでしょうね。
でも、元禄の平和な時代、47人もの武装した人たちが、敵討ちを したんですから、スゴイ事件だったんでしょうね。   小林昭男

2019年04月10日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 天気も、気分も最高に日になりました。


今日は素敵な事が有りました。  夕べの風の影響で、空が澄み渡って居ました。透き通る青い空、こんなに空気が美味しいとは 思いませんでした。それにも増して 山梨学院大学の生徒が、いくつもの グループにわかれて、(早朝のゴミ拾い)をしていました。学院大学の北側は、旧20号線、南側は、新青沼通り、回りはいくつもの、農道に 囲まれています。

(『お早う)と声を掛けると 大きな声で、『お早うございます』と 礼儀正しい、声が帰ってきました。
先日も、テレビで放映しましたが、外国に行って、負けた試合なのに、試合後 日本人の選手、観客が スタンドのゴミ拾いをして、世界中の 称賛を呼びました。
まだまだ日本人 捨てたもんではない様ですね。
山梨学院大学の生徒、あっぱれでした。座布団10枚です。 小林昭男

2019年04月09日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 昨夜の北斗七星 こんな物語が有ります。


最近 午後風が吹くので、夜空がきれいに見えます。天頂に、豪快に見えるのが 北斗七星ですが、北斗七星と言う 星座は有りません。大熊座の尻尾と 背中の一部です。ひしゃくを 逆さにした、深さの部分の5,6倍した下(真北)に夜空の中心 こぐま座 北極星(ポラリス)が見えます。その又、下側(真北の地平線位)Wの形をした、カシオペアが見えると思います。

星座神話によると、大熊座のクマは 女神アルテミスに 仕えていた 美女ニンフ(森や泉の精)カリストで 大神ゼウスの愛を受け、可愛い男の子(アルカス)を産みました。
女神アルテミスは怒り 魔法を掛け、カリストを クマに変えてしまいました。それから15年の月日が流れ、アルカスは、 立派な狩人に 成長していました。
ある日、森の中で大きなクマを見つけ 矢を放し 母親のカリストを射止めて しまったのです。
大神ゼウスは、深く悲しみ 親子を天上に上げ、こぐま座の北極星を守る様に いつも一緒にいる 位置に 母親(北斗七星)を置いたのだそうです。
晴れた夜空を見上げてみましょう。星を見ながら、物語を想像すると なお一層楽しいですよ。   小林昭男

2019年04月03日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) ふたりは、童謡の先駆者です。


組合の皆様、桜、水仙、チュウリップなど、典型的な春のお花の 便りが届きます。寒い冬から やっと飛び出し 春を謳歌しています。思わず口ずさむ歌【おぼろ月夜】

(菜の花畑に 入日薄れ 見渡す山の端 霞深し
春風そよ吹く 空を見れば 夕月掛かりて 匂い淡し)
 
作詞をした高野辰之は 長野県豊田村(現、中野市)に生まれ 文学博士(東京帝大)(日本歌謡史)(日本演劇史)など 多数の研究史を 刊行しました。また、文部省歌謡唱歌を作詞し 近代歌謡史に 多大な貢献をしたそうです。校歌の作詞も、100校以上に及んでいます。71才で亡くなりました。

(里わの火影も 森の色も 田中の小道を たどる人も
蛙の鳴くねも 森の色も さながら霞める おぼろ月夜)

作曲した岡野貞一は 島根県の士族の家に生まれ、貧しい暮らしをしたそうですが、苦学して 東京音楽学校(現、東京芸術大学)の助教授になり 高野辰之の詩に 曲を付け 全国で歌われてきました。【ふるさと:兎追いしかの山 】【春の小川:春の小川はサラサラ行くよ】【春が来た:春が来たどこに来た】【モミジ:秋の夕日に 照山紅葉】など 今でも口ずさむ童謡がいっぱいあります。63才で亡くなりました。   小林昭男

2019年04月01日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 無著成恭先生は、戦後の素晴らしい教育者です。


全国子供電話相談室、昔からよく聞いていました。回答者の中に いつも出てくる人(無着成恭先生)楽しみでした。山形県の本沢村の お寺に生まれました。山形師範学校を出て 教師になり、山元中学校に赴任しました。6年間勤務中 子供の教育とは何か、社会人になる教育の在り方など考えた末 クラスの文集 【やまびこ学校】を発表し ベストセラーになりました。

翌年、映画にもなり(木村功、滝沢修、杉葉子)など蒼々たるメンバーでした。しかし村人から、村の恥を さらしたと言われ、村を離れ 上京し駒澤大学入学したそうです。
その後、明星学園で、教鞭をとりながら、ラジオやシロクロ テレビで活躍しました。
子供の質問で、(宇宙とあの世ではどちらが遠いか?)には
(あの世に行けば、返ってこれない。宇宙では、帰ってこれるから、あの世の方が遠いんだよ。)こんな答えを秋田弁で 答えていました。
終戦当時 進むべき進路を模索していた、小中学校教育に真剣に取り組み、戦後、民主主義教育の 典型例として、高く評価されています。
現在89才ですが、(母親のおなかの中に、約一年いましたので90才です。)と言っているそうです。もっとエピソートが有りますが書ききれません。今日が誕生日です。 小林昭男