月別アーカイブ: 2019年2月

2019年02月26日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 土井晩翠、滝廉太郎の(荒城の月)は つい口ずさみます。


春、高楼の花の宴 巡る盃影さして

千代の松枝 分け出でし 昔の光今いずこ。
最近の唄は どうも馴染めません、一生懸命、踊って歌っていますが意味不明です。若い方に怒れそうですね。
秋陣営の霜の色 鳴き行くカリの 影見せて
植うる剣に 照り沿いし 昔の光今いずこ。

【荒城の月】を土井晩翠が 作詞したのが1898年(明治31年)晩翠28才の時であり 東北大学の修学旅行の 鶴ヶ城(若松城)を 思い浮かべたり、戊辰戦争で壊滅状態になり、白虎隊の悲も思い浮かべながら構想を練ったようです。 作詞の上では 故郷、宮城県の青葉城(仙台城)を散策しながら作詞したと言われています。
2節目の (秋陣営の霜の色・・・)は 上杉謙信が、七尾城攻略の折読んだ漢詩(霜は軍営に満ちて 秋気清し、数行の過がん月見さらなり・・・)から、思いついたようです。

天上影は変わらねど 栄枯は移る 世の姿
映さんとてか今も尚 ああ、荒城の夜半の月
1952年素晴らしい詩を送り出し80才で 永眠しました。
作曲した、瀧廉太郎は 自分が子供時代に過ごした、大分県
竹田市 岡城を散策し 曲の構想を練ったと 伝えられています。
お二人とも、私達が今、口ずさむ数々の名曲を、送り出しました
小林昭男

 

2019年02月25日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 美しいものは永遠に残したいですね。


18才のアスリートの方や 7人の子供を持つお母さんのがん告白、北海道の地震、いじめ、パワハラ 最近はニュースを見たくありません。
少し明るい事を 思い浮かべてみましょうか。
先日読んだ本に、何が世界一か、生活、景色、法律など 各分野で、列記してありました。
私が一番心を動かしたのが 南米ボリビアの【ウユニ塩湖】でした。富士山とほぼ同じ高さ(3700m)にある 南北100Km  東西250Kmの 塩の塊の湖です。
皆様も、テレビや雑誌で 見たことはあると思いますが、塩原の中心部に立てば、地平線まで、雪景色の様だそうです。
アンデス山脈の 隆起により出来た大地で、流れ出る場所がなかったので、長い年月を掛けて、塩湖になったそうです。
100Km四方の標高差が50Cmで (世界で最も平らな場所)
だそうです。又、世界で一番大きな 天空の鏡に なるそうです。
ウユニの塩は、世界中に輸出され、日本も輸入しているそうです。塩をブロック状態にして、家を建てたり、塩のブロックで、ホテルも建設してあるそうです。地球も広いですね。
写真右:塩を山にして乾燥しているそうです。  小林昭男

2019年02月20日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 日本庭園の研究かです。


私達が、神社仏閣を見学する場合、建物は勿論ですが、庭園に目が移ります。日本でも有数な庭師 重森美鈴氏は 日本庭園の設計者です。

当初は、画家を志願していましたが 1929年(昭和4年)京都に移り住み 勅使河原宗風らと、新興生け花宣言 をし 生け花の革新を提唱し、話題を呼びました。
その後、日本庭園を 独学で学び 昭和11年ころから、全国500か所以上、名庭園、古い庭園を回り 研究家として、 日本庭園の 先駆けとなった人です。
1976年(昭和51年)完途氏(長男)と共に 【日本庭園史体系】全33巻 を完成させるなど 日本庭園史に多大な貢献をしました。享年79才でした。
ご自分の名前を、三玲(ミレイ)フランソワ、ミレイに改名し
(一度出家すると戸籍を抹消で来ることを知り、出家して戻り)三玲のしたそうです。
長男、完途(カント) 次男、広俺(コーエン) 長女由郷(ユーゴー) 三男、執氏(ゲーテ)等々 ヨーロッパの偉人の名前を つけたことも有名です。子供や孫たちが 殆んど 芸術に関係する 職業についています。
上:岸和田城八陣の庭、中:京都瑞峰寺の庭、下:松尾大社蓬莱の庭 (重森三鈴美術館写真参照)小林昭男

2019年02月19日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 能登。北陸の抑え、富山城。


日本の冬型の天気図は 西高東低が常識で、関東は空っ風、北陸は雪景色です。安土桃山時代、木下藤吉郎の時代から、仲良く付き合っていた 前田利家 寧々さん、お松さんと呼び合い 家族ぐるみの付き合いでした。絶対的に利家を 信頼していた秀吉は、北陸方面の守りを 前田利家に任せていました。越中、能登、加賀、越前 など 前田家が治めていました。

江戸時代になり、利長、利常と代が変わっていき 利常の長男(光高)が加賀を治め 次男(利次)が越中(富山県)を相続したのです。
富山城は、もともと、水越勝重が 神通川沿いに、築いた城ですが 1579年 信長の家臣、佐々成政が 越中、守護職として入城し お城の 大改造をしました。1585年 秀吉が天下を取り、佐々成政は、外様大名として 九州熊本に 入封されました。その後、北陸4県を前田家に 与えたものです。
以来、加賀藩から10万石で利次が 分封されたのです。
その後は、230年余り 前田家13代の居城として使用されたのです、建物は 火災や水害で焼失し 現代の建物は1954年 当時の建物を、想像し 建てたものです。  小林昭男

2019年02月16日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 聖徳太子を、奈良で探そう。


日本で最も美しい 微笑みを浮かべる仏像は 法隆寺東院 隣り、中宮寺にの本堂に 座していらっしゃいます、半跏像 (弥勒菩薩様)ではないかと思います。3月初旬に 奈良に行く予定がありますので 是非、詣いりしたいと 思っておます。

【中宮寺縁起】には如意輪観音と 伝えられて来た 仏像ですが 同じ飛鳥時代に 造像させた、広隆寺半跏思惟像様が、 弥勒菩薩で有る事から、【弥勒菩薩様】として、親しまれてきました。
弥勒菩薩様は、お釈迦様入滅後 56億7千万年後に 悟りを開き 私達を救って下さる、未来の仏様です。
横から見ると、右手の中指を そっとホホの当てれれ 親指と人差し指で 【OK】サインをしているようです。
きっと お参りすることを 全て、守ってやるから 大丈夫だよと 言っているようです。
中宮寺は、聖徳太子 ゆかりのお寺で、山号を法興寺と言い 開山者は、間人皇后(聖徳太子の母君)と伝えられています。
700年以上たった、1602年 慈覚院宮を 初代門跡に迎え、
門跡尼寺として、今日にいたっているそうです。(門跡寺院とは:代々皇族、貴族などが住持する格式の高いお寺) 
ちょうど私が旅行する頃は、お天気さえよければ、心地よい風と、ひかりが、お堂周辺を 駆け巡っているかも知れません。楽しみです。  小林昭男

2019年02月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 婦人参政権に尽くした、平塚雷鳥の生涯


(元始、女性は太陽であった。) 平塚雷鳥25才の時、雑誌、 (青鞜)発刊の折 自ら寄稿した 表題に掲げ、当時の女性を驚かせました。戦前、戦後を通じて 一貫して、女性の参政権、女性解放運動、平和運動に尽力し、2005年 日本大学では、平塚らいてう賞を創設しました。(日大は母校)

1914年(大正3年)市川房江さんらと (新婦人協会)を設立、婦人参政権運動を続け 戦後、国会議員の当選 平和と、夫人の権利を守る 運動に終始しました。
自ら言っているように 常に貧乏でした。機関誌発行や、貧しい婦人たちに 寄り添い、粗末な身なりを、自慢するかの様だったそうです。あまりに 婦人運動に集中し過ぎ、夫、  奥村博史は
【静かな水鳥たちが、仲良く遊んでいるところへ 一羽のツバメが飛んできて、平和を乱してしまった。若いツバメは 平和の為に 飛び去って行く】と書いて、去っていったことから、(奥村氏は雷鳥より6才下)  (若いツバメ)が当時の流行語になったそうです。
1886年(明治19年)会計検査院次長、一高ドイツ語教師の 裕福な家に生まれ乍ら、一生貧乏し 1971年(昭和46年)亡くなりました。昨日が誕生日でした。
右:市川房江  小林昭男

2019年02月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) このまま化学は進んでいくのでしょうか。

最近は 電子頭脳が発達し 便利になりました。掃除洗濯は 勿論、車の運転も してくれます。危険を感ずれば 止まってもくれる 良い世に中です。
外出先から、家の中のスイッチを 入れてくれます。暖房を つけ、お風呂まで 沸かしてくれます。日本中どこへ行ってもお金も降ろし、お店でカード一枚あれば 買い物も 自由に 出来ます。
家の中の片つけは ルンバが活躍し、お洗濯したワイシャツも たたんで くれるそうです。 スマホ 一台あれば、フェイスブックから、飛行機の予約まで なんでもできる 時代になって居ます。
さて、今から どんどん化学が 進んでいくと、我々人間は 何をすれば 良いのでしょうか。体は、退化し、考える事さえ 出来なく なるかもしれません。
こんな便利な世の中で、親が子供を殺し、親しく付き合っていた 恋人を殺し、子供が親の年金欲しさに 親を殺すニュースが流れます。学校のいじめ、会社のパワハラが ますます多くなり。自殺までする状態になりました。何か ちぐはぐになって来ました。
化学に頼ることも 時には必要かもしれませんが、たまには 後ろを 振り返ってみるのも、必要だと思うこの頃です。小林昭男

2019年02月05日 (投稿者: 株式会社フレンズ )

 

サザエさん一家(磯野家)は発育盛りの子供が3人。家庭を預かる主婦は大変です。この漫画で 一番出てくるのは、スイカ、おはぎです。
波平の祖先が おはぎを38個食べて 殿さまに褒められたことから、おはぎを 黒いセーターで カモフラージュしたり、食べ過ぎてお腹を壊す サザエさんの事が㊿巻、53巻に出ています。磯野家では おはぎを 死ぬほど食べるのが、ご先祖さんの 供養の様です。
スイカについても、かなり詳しく 書いています。普通は台所で切るスイカを、茶の間のテーブルの上で切るシーンです。(⑥菅96ページ) マスオと、ノリスケが 喫茶店でスイカを食べながら、いつものように 皮ギリギリまで食べるシーン(⒁巻70p) お盆さんに 仏様に スイカをお供えするに、薄く切った切り身をあげ ほとんど皆で 食べてし舞う習慣、普通は、丸のままお供えし お盆さんが終わってから 食べるのが 普通だと思います。(46巻43p) 風呂でスイカを冷やせば、タラちゃんは 風呂から離れず、三日月を見たカツオは、ワカメと、冷蔵庫に 駆けつける始末。(19巻、29巻)スイカと、おはぎは 磯野家を狂わせています。左:長谷川町子
小林昭男


日本100名城の一つ、掛川城をご紹介します。関ケ原の合戦直前、伊達政宗攻撃後、取って返すさなか 山之内一豊は自分の居城 掛川城を 徳川家康に提供する旨、進言、一気に東軍の勢力が結集し、その功績で 高知城に 昇進した話は有名です。又、一豊の妻も 質素倹約に励み 陰から山之内家を助けました(一豊の妻)と言う諺にもなって居ます。

山之内一豊は、織田信長に仕え 1570年姉川の合戦が 初陣です。初めは 400石で、長浜付近を所領としていましたが、豊臣秀吉の中国攻め(三木城、鳥取城、高松城、)の功績で 2000石に加増されました。その後、1590年遠江、掛川城に 5万1000石で入城したそうです。
その掛川城 平成6年、【東海の名城】と呼ばれた、その美しさもまま 本格的木造天守閣、として復元されました。 二条城と並んで 日本に現存する建物は 4件残っているのみです。
掛川城の美しさも さることながら お城周辺には 四季桜、しだれ桜、ソメイヨシノなどの桜が 130本も植えてあり、多くのひとを 楽しませています。右:山之内一豊。    小林昭男

2019年02月02日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 一つの現象を見て、いろいろ想像してみましょう。


紅梅の紅(べに)の通える幹ならん。

高浜虚子の観察力、優しさが出ている 俳句ですね。綺麗に咲き誇る紅梅も 元を正せば、根であり、枝で有り 幹などの 総合的な働きで、綺麗に咲くことを 歌っています。
(遠山に、日の当たりける枯れ野かな。) 本人が 一番気に入った俳句だそうです。
正岡子規を 兄の様にしたい、子規の門下生では 河東碧悟桐と 肩を並べました。碧悟桐が、入院中、彼の婚約者(大畠糸子)と 仲良くなり 結婚したことで、関係が 薄くなりましたが、彼が亡くなった時(たとうれば、独楽のはじける如くなり)と 非常に悲しんだそうです。
俳句や、詩から 小説に移行する時(春風や闘志抱きて丘にたつ)と 強い俳句で 意志を表わしています。
一つ先輩の、夏目漱石には、小説を書くのを勧め 処女作(吾輩は猫である)を世に出しました。
【ホトトギス派】の代表的な存知で活躍し 多数の俳句集や 著作を残し 昭和34年85才で亡くなりました。小林昭男
左から、高浜虚子:正岡子規:河東碧梧桐:夏目漱石。