月別アーカイブ: 2018年6月

2018年06月27日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 一飛びに、ひとどは闇に 帰りけり。(芭蕉)ひとど=カマドウマ

自分の家や 巣を持たなくて、ここが俺の住処(すみか)だ と言っている昆虫が殆んどです。最近あまり見なくなった(カマドウマ)もその仲間です。暗い森林や 木の洞にいましたが、人家が増えていたので、勝手に 入り込みました。食べ物はあるし、かまど周りは、温かいし 天敵はいないし、最高の住処です。
コウロギの 仲間ですが、羽根は退化して無く、その代わり長い触角が発達しました。しかし、ゴキブリと同様、何にも悪い事をしないのに、ただ 気持ち悪いと言うだけで 人間には 嫌われ者です。名前の語源は、馬の様にはね、竃(かまど)近くに いるからだと思います。
人飛びに、いとどは闇に、返りけり。(松尾芭蕉)と 芭蕉は親しみを込めて歌っています。(いとど=ゴキブリ)
家の中ばかりでは無く 大きな洞窟に住んでいるものも います。秋吉台や、龍河洞などの 石灰岩でできた 洞窟を 特に好みます。温度変化がなく、ミネラル分が豊富にあり 湿度も均一です。しかし まっ暗闇ですので、その場所に適合し 目は退化して ほとんど見えず、触角が異常に、発達したと考えられます。こんな暗い じめじめした洞窟が 彼らにとって、一番住みやすい、安全な お城かも知れませんね。     フレンズ小林

2018年06月27日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 戦国時代は北条家に始まり、北条家で終わる。

小田原城を観察してみました。大久保家11万石の居城です。城の紀元は はっきりしていませんが、相模の豪族 小早川遠平が、縄張りをしたようです。その後、1417年駿河領主、大森頼春、を経て、北条早雲が居城としました。戦国時代は、北条家に始まり、北条家で 終わりを告げたと言われています。
武田信玄や、上杉謙信をしても 落ちなかった、この城は 南は相模湾 西は、箱根の山山 難攻不落のお城でしたが 1590年 豊臣秀吉軍、徳川家康軍により落城し 小田原攻めで 功績のあった、大久保忠世が城主になり 早雲から続いた(約100年)北条家は滅亡したそうです。
当時は、早雲、氏綱、三代氏康らが、関東一円に触手を伸ばし 四代氏政、氏直が全関東を 支配するに至りました。
小田原城が、重要視されたのは 江戸に入封された家康は、ここで、大阪の兵力を、箱根と、この城で食い止める、重要な位置にあったと推測できます。
明治3年、廃城となり 小田原、足柄 県庁支所となりましたが 関東大震災で、甚大な被害を出し 江戸時代の姿は 完全に消え去りました。昭和35年、大望の天守閣が復元され市民の憩いの場所に なっています。小田原城と、北条早雲 フレンズ 小林

2018年06月26日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) サザエさんの家庭事情

庶民の代表の様な磯野家、九州福岡から 東京に引っ越したのが昭和21年、東京、世田谷に居を構えましたが、貸家でした。大家さんと波平が 家賃の事で喧嘩していますので借りていたことが解ります。住所は、ワカメが迷子になり、交番のおまわりさんに 世田谷区新町三の51番地と言っています。しかしサザエさんは 友人に 世田谷区新町三丁目515番地、フグタです(第5巻)と言っていますので、その頃は磯野家とは別居していた様です。
所が、第61巻から、ダイニングを新しくしたり、食事をテーブルで食べる様に 改築しているので、波平はこの土地建物を 買い取ったと思われます。(第65巻)で (先先、ここを売って、郊外に住もう)と家族に話しています。その頃の景気が 万博の影響もあり、良くなったので、収入も増え、磯野家も 金銭的に楽になったようです。
波平の 給料ですが、昭和42年、54才ですので一般的なサラリーマンで、7万円位だと思います。マスオさんは 33才ですので 4万5千円位だと思います。当時は二人の給料で 暮らしていたようです。サザエさんもその頃 近所にアルバイトをしたようですが、長続き出ず、収入は当てにできて居ますん。
ただ、裕福ではない様で 電位製品を買うにも、ボーナスがいくらもらえるか、マスオさんにいつも 聞いていたようです。また、二家族がいつ同居したかは 解りませんでした。
でみ、いつも笑いが絶えない素敵な家族です。フレンズ小林
東京サザエさん学会、発行の本参照

2018年06月23日 (投稿者: 株式会社フレンズ )

夏は夜、月の頃はさらなり、闇もなお、ホタル飛びちがえる。清少納言の時代から 日本人は夏の風物詩として 蛍を話題にしてきました。世界には 2000種類の蛍がいるそうですが 日本には20~30種類だそうです。
ほーほーホタル来い、こっちの水は甘いぞ。などと歌われていますが、最近は めっきり見なくなりました。農薬や、側溝の整備で 激減したと思わらます。餌になる、カワニナまでも 少なくなっていますので、ホタルにとっては 嫌な世の中になったと 嘆いているかも知れません。
私達が目にするのは 主に、源氏ホタルと平家ホタルです。
源氏ホタルは、清流を好み 入梅時の 7月いっぱいに活動します。ですから、ホタル合戦などは この時期に集中しています。その後は専ら 平家ホタルでです。平家ホタルは,静水を好みますので(池や、沼)を 8月中旬まで、飛び回っています。交尾が終わり、卵は40日くらいで、幼虫になり、川辺の土の中で 越冬します。5月ごろ蛹になり、約一か月で成虫になり、私達を 喜ばせてくれると言う訳です。
フレンズ小林

2018年06月19日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 忘れてはいけない明治の女傑

(九転十起生)を掲げ、明治を代表する女性実業家【広岡浅子】を忘れてはいけません。京都小石川三井家に生まれ、17才で大阪の豪商 加島屋の広岡信五郎と結婚しました。
20才で明治維新を迎え、その動乱で 家業が傾いた加島屋を救うため 何もわからない実業界で奔走した。
まず、一族と共に 加島屋を立て直し 明治21年、探鉱事業に参画 護身用のピストルを身に着け、鉱夫たちと、寝起きをし 男たちもためらう仕事をこなし、狂人呼ばわりもされたそうです。明治21年【加島銀行】を設立。続いて明に35年には(【大同生命】創業に参加しました。炭鉱夫として働いた時の、坑夫の危険の仕事を、肌で感じたのでしょう。大阪では有力な、財閥に成長していきました。
女性教育にも力を入れ、実家の三井家一族や、加島屋から 援助を受け、1901年(明治34年)目白台に日本女子大学校(現、日本女子大学)設立を導きました。もちろん、夫の広岡信五郎も 創立委員で参画したそうです。
明治37年、夫、信五郎の死去と共に、事業の経営権を全て全て担当者に渡し 以後、女性教育、社会貢献事業に携わっていたそうです。素晴しい明治の女傑でした。
フレンズ小林

2018年06月16日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 秀吉最後の大戦は小田原城攻めでした。

豊臣秀吉最後の戦い、小田原城を包囲する目的で造った城 石垣山城のお話です。1590年西の 毛利氏を治め、東の小田原征伐の時 小田原城より 3Km離れ、見晴らしのいい 笠懸山に 一夜にして造ったと 言われているのが�、石垣山城です。
一夜城とも、太閤の一夜城とも 言われています。実際には4万人の人足と 80日かかったとも 言われています。
下から解らない様に 山の頂上を造成し、石垣を築いてから周りの木を切ったので北条方は アッと驚き戦意を失ったともいわれています。
秀吉は、水、陸合わせて15万の兵で 小田原城を包囲し 兵糧攻めに 掛かりましたが、北条方は和睦か、戦うかで迷い(小田原評定)ついに全面降伏しました。
規模は相当大きく、肥前(九州)の名護屋城に似ているので
縄張りは、黒田如水が 石積は 近江の 穴太衆が造ったとも伝えられています。野面積みの 頑固なもので、長期戦に備えたものです。この城には 戦いのさなか秀吉は、淀君や、千利休をよび、茶会などして、戦況を見守っていたそうです。
現在、新日本百名城に指定されています(日本城郭協会指定)
フレンズ小林

2018年06月15日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 5億年まえの生物が頑張って生きてます。

シャミセン貝や シーラカンスなど 海の中で 何千万年、何億年も 昔の姿の儘で生き続けた(生きた化石)と言われる古代生物がいますね。日本近海でも、オキナエビスや、古生代に 大繁栄した ウミユリの子孫などは、生きた化石です。潮黒に乘って南の海から はるばる流れて来た�、オキナエビスも、生きている化石の代表です。五億年も昔から ほそぼそ生きてきました。オーム貝は、貝と呼ばれていますが、イカや、タコの仲間です。フィージーからフィリピン、パラオ付近の熱帯で、水深500m位のところで ひっそりと暮らしているそうです。その南太平洋の 深海にしかいないオウムガイが、なぜ、日本に貝殻が打打ち上げられるのでしょうか。オウムガイの貝殻は、30近い小部屋で仕切られ、各部屋には 窒素ガスが充満しています。その部屋は 細管でつながれ、浮力のコントロールが出来る仕組みに なって居るのです。数十気圧の海底から一気圧の浅瀬まで、苦も無く上下します。ちなみに
マッコウくじらや、シーラカンスは 特別な脂肪が詰まっていて、耐圧用浮力調整をしています。オウムガイが死ぬと 体の中の ガスだけが残り、黒潮に乗り 北上するそうです。 そこでは生活できないが、形が残って居る個体を  無効分散と言うそうです。でも、殻だけが、数千キロ離れた 日本に流れ着くなんて、奇跡であり、夢が有る、素敵な 話ではないですか。フレンズ小林

2018年06月14日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 故郷の詩は好きですか。

私がフェイスブックを 書いている 右側の窓を開けると 玉諸小学校の 帰りの音楽が聞こえてきます。兎追いしかの山、あの童謡【ふるさと】です。1914年(大正3年)尋常小学校の六年生の 小学唱歌に発表されました。この曲を聞くと早く家に帰りたくなります。

兎追いし、かの山 小鮒釣りし かの川。
夢は、今も廻りて 忘れ難き、ふるさと。
永く作詞、作曲者が解らなかったのですが、昭和四十年ころ作詞は、高野辰之、作曲者は、岡野貞一と、解りました。
都会に お勤めや、勉学で 故郷を出て行って、辛酸辛苦を味わい、一人窓際で 故郷を懐かしむ、そんな歌だと思います。
子供の頃、同級生たちと 山や、川で遊んだ思いでを懐かしむ光景が目に浮かぶようです。
今なお、夢に思い 父や、母は年取ったか、友達は 結婚したのか、平静に 暮らしているだろうか。いろいろあるたびに 思い起こすふるさと。自分に 目標が達成したら、いつの日か 故郷に帰ろう、山は青く、水は清らかな故郷に。そんな歌だと 私は思います。
皆さん、故郷を持っていますよね。思い出したが吉日、故郷へ帰ってみましょう。上、長野県詩碑、左、高野、右岡野両氏。 小林

2018年06月11日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 伊良湖岬が懐かしいです。

名も知らぬ遠き島より
流れ寄るヤシの実一つ
故郷の岸を離れて
汝れはそも波に幾年月

元の木は生いや茂れる
枝はなお影をやなせる。
我もまた渚を枕
ひとり身の浮き寝の旅ぞ。

愛知県渥美半島の突端伊良湖岬に 流れ着いたヤシの実を詠った、島崎藤村の代表作です。(落梅集)
友人の柳田国男が 東京帝国大学2年生の時、約一か月間、伊良湖崎で療養している折り 流れ着いた、ヤシの実を見つけました。遠い南の国から 黒潮に乗って流れ着いた ヤシの実に感動し、日本民族の故郷は 南洋諸島かも知れないと 親友 島崎藤村に話したのが最初でした。
3年後の 明治34年、柳田から聞いた この話を思い出し 自分の境遇とを合わせて 作詞したのがヤシの実でした。
明治30年に発表した 詩集【若菜集】で浪漫派の作詞家として広く知れ渡る様になってた時でした。
これを契機に、長編の、破壊や、夜明け前などの 小説を書き上げたそうです。平成6年ころ、組合の研修会で 伊良湖岬で昼食の折(長谷川理事長)カラオケを歌って2時間帰宅が遅くなった言葉ありました。フレンズ小林

2018年06月09日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 日本一大きかった江戸城

日本最大のお城、江戸城を覗いてみましょう。15世紀 関東騒乱で、江戸氏が没落した後 1457年扇谷上杉の家臣 太田道灌が江戸城を建築しました。中世の頃、道灌の城として 有名になり中城、支城、外城、も完成しました。道灌の死後城は荒れ果て 1590年徳川家康が 入城した時は、土塁と、板葺きの 館らしきものが 有ったそうです。家康は、築城工事にかかり 1603年、征夷大将軍になってからは 江戸幕府の本城として 拡充が次々と進みました。二代将軍秀忠、三代将軍家光と 50年に渡り、完成させたそうです。(元名古屋工業大学教授加藤工学博士著)
江戸城築城の過程を 四つに分ける事が出来ます。
 1)1590年、家康が入城し 道灌が造った城郭の整備、 新たに西の丸の築城。
 2)1603年 征夷大将軍となって、秀吉の築いた大阪城に対抗し、天守閣を設け 豊臣家を、威嚇した。
 3)1617年 大阪夏の陣で勝利し、秀忠は 平和の象徴として、威嚇した 天守を築き直した。
4)1633年 家光は外郭を広げ 全国制覇した城郭にした。
しかし、この史上かって無m城郭の、江戸の大火(明暦の大火)で、ほとんど焼け落ちました。その後、本丸は建てず重要な文化財もあまり残って居ません。伏見やぐらや、大手門など復元したものも かなりあるそうです。
フレンズ小林

2018年06月08日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 寒い冬に備えよう。

子供の頃、学校の図書館に イソップの寓話集が有り、その中に アリとキリギリスの話が有りました。年配の人は知っていますが 若い方は読書離れして、ゲームや、テレビに集中しているようです。ご存知の方は 沢山いると思いますが。
夏の間、アリは一生懸命 冬に備えて食料を 蓄積していますが、キリギリスは、バイオリンを弾き、歌を唄って過ごしていました。やがて寒い冬が来て、青い草は枯れ、雪に覆われてしまいます。アリさんの所に、食べ物を貰いに行くと「夏に唄っていたのだから、冬は踊ったら」と食べ物を 拒否し、キリギリスは 植えて死んでしまいました。と言お話。教訓が二つありました。
一つは、先を見据えて、元気の内に一生懸命働き、蓄え 困った時に備える。勤勉の勧めです。
二つは、遊びもしないで、ガツガツ稼いで、相手が困っているのに、手も差し入れない非道な心、相手が 死にかけているのに 知らん顔で、雪に中に追い出す冷酷さ。
皆さんは どう思うでしょうか。フレンズ小林

2018年06月07日 (投稿者: 株式会社フレンズ )

昔から笑うことは 健康に良いと 伝えられて来ましたが、医学的に立証されていませんでした。健康に重要な働きをするのは、免疫力を 維持することが重要です。NK細胞と呼ばれる組織は、がん細胞や、ウイルス感染細胞を見つけ攻撃する、リンパ球の事だそうです。しかし、年齢を重ねていくとNK細胞は 年々働きが減っていくそうです。20才を100%としますと、40才で50%、60才で25%まで、減少します。そこでNK細胞を 活性化するには、【笑い】が一番だそうです。
健康で、ストレスを 溜め込まない為に、笑うことは勿論ですが、泣いたりして 感情を溜め込まず、発散することが大切です。このことは いろいろな実験で証明されてきています。特に筑波大学の研究班は 大笑いすることで、血糖値や、血圧などが 良好になる事を証明しました。
年齢と共に減少する NK細胞を活性化することで ストレスに負けない、健康な身体造りを いたしましょう。爽やかな笑顔で。(和歌山県、丹生神社参照)
フレンズ小林

2018年06月06日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 夕方太陽が沈んだら西の空を見ましょう。

昨日の夜は 良く晴れていましたので 久しぶりに金星を見る事が出来ました。皆さんご存知の 宵の明星金星です。宵の7時かろから 西の空に表れ 沈ん行きます。あの明るさですから(-4.7等星)誰にでも 見つけられます。
金星は太陽から 1億820Kmはなれていますが 地球とも近く 姉妹星とよばれています。大きさも 同じくらいですが 内容は全然違います。金星の表面温度は 470℃~500℃有り、とても住めません。大気が 二酸化炭素の層になって居るので、太陽光線が逃げず、蓄積されています。気圧も90気圧と 地球の90倍もあり 海に900m潜った気圧と 同じくらいです。また、その上の雲が 濃硫酸の水滴ですので、太陽の光線が 80%反射しオレンジ色に見えるそうです。太陽を 1mの球体と考えれば 地球は、ちょうど豆電球、金星はビー玉位です。兄弟星だった、地球と金星。少し距離が太陽から 離れていたので、地球は光合成して 酸素が増え、金星は 水分が蒸発し 二酸化炭素の熱い 塊になったそうです。それでも、美しい金星が9月くらいまで夕方見えるので、仕事の帰りにちょっと振り向いて【宵の明星金星】を見てみましょう。  フレンズ小林

2018年06月04日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 勝負する時は、絶対勝つ勝負を。

 

1559年80名の旗本を伴い、尾張名古屋城の織田信長は 将軍足利義輝と面会し、  尾張、滋賀、美濃地方制定の報告し 天下統一の足掛かりを付けました。翌年
永禄三年5月10日(新暦6月)駿河、遠江、三河三国の大首、今川義元は、遅れ
じと 二万五千の大軍を率いて 京都に出発しました。それは、尾張を踏み
つけての行動です。しかし待ち受ける信長の兵は 北陸や中国地方に分散して
2000しか有りませんでした。勝ち目は皆無と言っていいでしょう。しかし
、尾張、美濃を 明け渡すことも出来ません。名古屋城で あの謡曲を詠い
決断するのです。【人間五十年 下天のうちに比べれば、夢、幻の如くなり。
一たびこの世に生を受け、滅せぬことは、あるべきや】その後、直ちに
熱田神宮に兵を招集し 桶狭間で急襲の作戦を立て 今川の大軍を待ちました。
一行は 昼食をゆっくり食べ、甲冑を外して 寛いでた所に 精鋭の織田軍が
、今川義元だけを狙って急襲したのです。義元は 服部小平太に、一番槍で、
毛利新介に 首を刎ねられました。両人とも、尾張随一の港町(津島衆)の
精鋭です。不意を突かれて、義元が殺された今川方は、総崩れになり、
駿府に逃げ帰ったそうです。
この桶狭間の勝利により、織田信長は事実上
日本を平定したのでした。フレンズ小林

2018年06月02日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 組合の皆様、有難うございました。

平成30年5月31日第48回 山梨県不動産業協同組合通常総会において 私は
33年間に及ぶ 組合員との生活に 終止符を打たせて頂きました。
昭和60年の総会で 組合加入が認められ、広報担当理事、渉外担当理事、
総務理事、専務理事、副理事長を経て 通算8年の永きに渡り、組合員の
絶大なるご協力を得て理事長を務めさせて頂きました。また、理事長退任
後も、名誉相談役などの 重責を汚させて頂き 無能な私を育てて頂き、
感謝に耐えません。組合理事会のご要望で、組合顧問の要請を受け微力で
有りますが今後も協力し 組合発展の為、陰ながら努力をして行きたいと
思っています。設立50周年に向けて 益々充実していく事を心から祈念申
し上げます。                       敬具
フレンズ 小林

 

2018年06月01日 (投稿者: 株式会社フレンズ ) 里山のオシャレな小鳥

庭のフェンスの上で、ツーピー、ツーピーと鳴いているのはシジュウカラです。雑木林の代表の様な この鳥は他人(鳥)が掘った樹洞や、朽ちた木の 洞などに 蘚類(杉苔など)を敷き詰め その上に 動物の毛などを載せて 8個くらいの 玉子を産みます。
最近では 雑木林が少なくなったので、石垣の隙間や、公園の巣箱などで、子育てをしています。原生林の中の 樹洞を利用しているのは、シジュウカラばかりでは有りません。ヒガラ、キビタキ、コゲラなど 数種類のカラ類が 生息していますので、決して 良い住宅環境では有りません。それで、競争力の少なく、かつ、安全な人間のそばに(蛇やイタチがいない)下りて来たのかも知れません。でも困った問題が一つあります。
巣造りの時、隙間を埋め適当な水分を含む、蘚類(せんるい)がどうしても 必要ですので 1Km以内に杉林か、それに準ずる場所がないと巣造りの出来ません。鳥の世界でも、家造りは大変な様です。(この写真は、図鑑を拝借しました。)フレンズ小林